『凸凹息子の父になる』29 白い巨塔
その日の午後、ベッドから降りて歩くように言われた。
外科のナースは、非常に厳しい。
「星さん、手術が終わって24時間経つと、もう病人扱いはしませんよ。筋肉が衰えないように自分の足でしっかり歩いてね」
そして、旧病棟までレントゲンを撮りに行くように言われた。
体中、あちこち痛かった。腕には点滴、腹部からは溜まったリンパ液を排出すためのチューブが伸びている。
自分の腹から赤く染まった液体が流れ出ている様子は、割とグロテスクな見た目だ。
旧病棟は大勢の外来患者で、空港のロビーの様な賑わいだ。その間を縫うように、私は点滴とリンパ液の袋をぶら下げなら、一人で必死に歩いた。
やっとの思いでレントゲン室にたどり着くと、検査技師が涼しい顔をして
「手術をしたのは、この辺ですか」
と、私の腹を押した。
「ぎゃっ」
あまりの痛さに声が出た。
「痛かったですか?」
痛いに決まっているじゃないか。きのう、手術したばかりだぞ。そう言いたかったが、黙ってうなずいた。
そして痛みを堪えながら、レントゲン撮影をした。
次の日は交代で、南さんが来た。
「おとといは畦間先生の手術だから、見学する人が多かったんですよ」
そうなのか。本人が見ることが出来ない身体の内部を、大勢の他人が見ているというのは、変な感じだ。
よく医療ドラマでやっている、あんな感じだったのだろうか。
医療ドラマと言えば、『白い巨塔』の教授回診のシーンが印象的だった。教授が大名行列のように、十人程の医師を引き連れて各病室を回るのだ。
そのシーンをテレビで観たときは、流石にこれはドラマの演出で、実際にこんなことはしていないだろうと思っていた。
ところが実際、この病院でも同じような教授回診が行われていた。
普段は三人の主治医が、一人ずつ交代で診察にやって来る。
しかし教授回診は、他の先生の回診の時とは明らかに空気感が違う。
回診前にはナースが来て、各ベッド周りを整える。患者もトイレなどを済ませて、ベッドの上で待機していなければならない。
そして放送がある。
「間もなく、坂田教授の教授回診が始まります」
私の頭の中で、ドラマ『白い巨塔』のテーマ音楽が流れる。
すると足音と共に白衣姿の医師達が、ぞろぞろと病室に入って来た。その数、十人以上は居ただろうか。
見事にドラマ通りだった。いや、ドラマがこれを再現していたのか。
先頭は坂田教授、次に手術を執刀した畦間准教授、山村先生、佐々木先生、橘先生と続き、あとは知らない先生が数名いた。
畦間先生が私の状態を、坂田教授に説明した。
「星 宙太さん、37歳です」
「病名は?」
「スキルス性胃ガンです」
「ステージは?」
驚いた。患者の目の前で、こんな質問をするのか。そう思ったが、畦間先生は淡々と答えた。
「ステージは、1です」
「術後、何日目?」
「四日目です」
教授がうなずき、私に聞いた。
「ご気分は、いかがですか?」
「ああ、だいぶ良くなりました」
「そうですか。それは、良かったですね」
それで教授回診は終わった。ぞろぞろと医師達が部屋から出て行く。
その一番後ろを、若い女性の医師が歩いていた。小柄な先生で、うちの長女と背格好が大して変わらない。
その背中からは、何となくイヤイヤ感が伝わって来る。
外科医の世界でも下っ端は大変なんだろうなと、彼女の後姿を見ながら思った。
その後は順調に回復した。口から飲食が出来るようになり、点滴もリンパ液の管も外れ、傷も塞がってきた。
今日は抜針の日だ。また今日も、橘、南コンビだった。
傷を留めていたホッチキスの針を外していくのだが、これがなかなか痛い。まだ橘先生の方は、それほどでもないのだが、南さんの外し方が痛いのなんの。
「星さん、彼女、わざと痛くしてますからね」
先生の言葉に
「わざとじゃないですう」
と口をとがらせる実習生。どうでもいいが、私は二人のオモチャにされているみたいだった。
二人が部屋から出た後、自分の腹を鏡に映して見てみた。わりと傷は小さいが、ヘソは少し斜めになっている。私は、ヘソ曲がりになってしまった。
そして、退院の日が来た。義母のリサさんと、義妹のミシェルが迎えに来てくれた。
「だいぶ元気そうになったわね。よかった」
リサさんは、気さくで優しい。
「お蔭様で、ありがとうございます。今日は忙しいのに、わざわざ済みません。お店の方は、いいんですか?」
「ちょうどジョンが、おとといから来て留守番してくれているのよ。ミシェルの彼氏も手伝ってくれているし」
「なら、よかった。お義父さんにも、よろしく伝えてくだい」
「うん、伝えとくね」
二人は入院中に増えた私の荷物を、車まで運んでくれた。私はリサさんが用意してくれた菓子折りを持って、ナースステーションに挨拶に行く。
「どうも、いろいろとお世話になりました」
「お迎えが来られましたね。それじゃどうぞ、お元気でお過ごし下さい」
手の空いたナースが、エレベーターまで見送ってくれた。本当に皆さんのお陰で、元気になれた。有難かった。
エレベータで下っていると、途中の階でヘンテコ眼鏡の女医が乗ってきた。私を担当した麻酔科医だ。彼女を目にしたのは、手術日以来だ。
「こんにちは、手術でお世話になった星です」
「えーっとー」
女医は私のことなど、すっかり忘れているようだった。声をかけなきゃ良かった。
「あの胃がんの手術の時の」
「あ、直前になって『やっぱり手術はしません』と駄々をこねた星さん?」
ちぇっ、どうでもいいことだけ、覚えていやがる。しかし私は礼を尽くした。
「お陰様で、今日退院になりました」
「あ、それは良かったですね。では、お先に失礼します」
そういい残して、女医は二階で降りた。個性的な見た目で、性格もぶっきらぼうな女医だったが、麻酔の後遺症もなく無事に手術を終えられたのは彼女のお陰だ。
一階に降りると、リサさんが待っていた。二人で病院の玄関から外に出ると、向こうから藍色の車がやって来た。
「あの車よ」
リサさんが言った。
「えっ?買い換えたんですか?」
「いいでしょう」
新車の乗り心地は、なかなか良かった。今日は、ミシェルの運転だ。よく晴れたドライブ日和で、海の見える道路を車は滑らかにスピードを上げた。
いつもの見慣れた風景が、他人の車の後部座席から見ると、また違った景色に見える。
1時間程で、我が家が見えて来た。もう何年も留守をしていたような気がする。
車の音を聞きつけて、妻と子供たちがウッドデッキに出てきた。
「お帰り、パパ」
「パパ、お帰りなさい」
「パパ、会いたかったよ」
車から降りると、子供たちが私にまとわりついた。
家族が居る。私の帰りを待ってくれる家族がいる。
私は、その幸せを噛み締めた。