『凸凹息子の父になる』5 次女の嫉妬と息子の泣き声
妻と息子が退院した。
私は眠っている息子を、ベビーベッドに寝かせた。息子は、いびきをかいている。
「赤ん坊って、こんなにいびきかいてたっけ?」
「さあ、夜中じゅう泣いているから疲れてるのかも」
「それに付き合わされるのも、大変だなあ」
「パパもお留守番、大変だったね。家中、ピカピカにしてくれてありがとう」
その一言で、努力が報われる。
「翔ちゃんが眠っているうちに、私も寝とくね」
「それがいいな」
妻は、束の間の休息を取った。
数日後、リサさんとミシェルに連れられて、娘たちが帰って来た。
「ただいまー」
長女と次女が、元気よく飛び込んで来る。
「おかえり。二人ともお利口さんだった?」
妻が次女を抱き上げ、長女の頭をなでる。
「とっても、お利口だったのよ。ね!」
「ね!」
義母と長女は、顔を見合わせて相槌を打った。
「そう?それは良かった」
「どうも、お世話になりました」
私も義母にお礼を言うと、
「いえいえ、楽しかったわよ。でも、これからが大変だから、ソラさん頑張ってね」
と、肩を叩かれた。
「ねえ、赤ちゃんは?」
長女が聞いてくる。
「子ども部屋で寝ているよ。まずは手を洗ってうがいをしておいで」
「はーい」
「はーい」
ミシェルが、長女と次女を洗面所に連れて行ってくれた。
手洗いが済むと、みんなで子ども部屋のベビーベッドで寝ている息子との対面だ。
「うわあ、ちっちゃーい。かわいいー」
もう長女は、弟にメロメロだ。
「名前はね、翔太だよ」
「じゃあ、翔ちゃんて呼ぼうかな?」
「そうだね」
「翔ちゃん、翔ちゃん、お、き、て」
「起きないよ。今は寝てばっかだよ」
「なーんだ、つまんなーい」
はしゃぎまくる長女に対して、次女は指をくわえて妻にしがみつき、今にも泣きそうな顔になっている。
今の彼女は、若手に主役の座を奪われた女優さながらの落胆ぶりだった。
そんな次女を抱っこしながら、妻は妹を労った。
「ミッちゃんも、いろいろ、ありがとね」
妻はミシェルのことを、ミッちゃんと呼ぶ。
「うん、楽しかったよ」
私たちが結婚したころ小学生だったミシェルは、早いもので高校生になっていた。彼女は中学までバスケットをやっていたので、妻よりも背が高い。
ショートヘアで外見も仕草も少年っぽいところがあるが、子ども好きの優しい子だ。
そして今日は、カップケーキを沢山焼いて持って来てくれた。
「かれんたちも、ミッちゃんねえちゃんのお手伝いしたんだよ」
長女が得意げに話す。
「へえー、すごいなぁ。じゃあ、頂こうかな」
早速、アイスティーとミルクを注いで、賑やかなお茶の時間になった。
バターたっぷりのカップケーキには、ブルーベリーが入っている。
「うん、美味い」
「いっぱい作って良かった」
アイスティーを飲みながら、リサさんが呟いた。
「かれん達がいなくなると、ばあば、さみしくなっちゃうな」
「じゃあ、泊まっていけば?」
長女が言うと、
「そうしたいけど、スミ子おばあちゃんとジョンじいじが寂しがるからねえ」
「ふうん」
スミ子さんは子ども達の曽祖母で、ジョンさんは祖父になる。
「じいじはね、ひいおばあちゃんのこと、『セミカさん』って呼ぶんだよ。なんかセミみたいね」
長女のおしゃべりは、止まらない。
「あはは、面白い。ジョンは『スミコさん』って言ってるつもりなのにね。日本語の発音が難しいのよ」
リサさんは、大笑いした。
「へえ、へんなの」
かれんは、三歳児のくせに、大人と対等にしゃべりやがる。
一方、次女のあんりは眠くなった様で、ぐずぐず言い出した。赤ん坊への嫉妬の炎が燃え始め、自分の感情をもてあましている。
「じゃあ、そろそろ失礼しようかな?ミッちゃん、行こうか」
義母の言葉に、次女はますます機嫌が悪くなる。
「だめー、帰っちゃだめー。だめなのー」
次女が大声で泣くと、寝ていた赤ん坊も泣き出した。すると次女は赤ん坊に負けまいと、もっと大きな声で泣く。
泣き声の二重唱、恐怖の合唱だ。
「あらあら、あんりちゃん、困ったちゃんになったわね。じゃあミッちゃんを置いていこうか?」
すると、やっと次女は泣き止んだ。
ミシェルは、
「いいよ。夏休みだし、暇だから」
と言って夏休みの間、うちに泊まってくれることになった。妻も私も、どれほどありがたかったことか。
それから夏休みが終わっても、週末になるとミシェルは泊まりに来て、娘たちと遊んでくれた。彼女が来てくれると、子供たちも喜び、我々も助かっていた。
本当にミシェルは、いい子だ。しかしその反面、休日に同級生と出かけたりしなくても大丈夫なのか気になって、妻に聞いてみた。
「それがね、あの子も、ここが居場所になっているところが、あるみたいなの」
そうか、ミシェルもいろいろあるんだな。私は、それ以上は聞かなかった。
妻は三人とも母乳で育てたが、三人目になると慣れたもので手抜きも上手くなっていく。
夜中、仕事が終わって私が寝ようとすると、子供部屋から泣き声が聞こえる。翔太が腹をすかせて泣いている様だ。
しかし妻は全く起きない。と言うより、わざと聞こえないふりをしているのではないかと思うほど相手にしない。三歳児と一歳児と新生児の子育ては、尋常じゃない程の体力が要るのだろう。
泣き声が止んだので子供部屋を覗いてみると、息子は母親が起きてくれないので、あきらめて自分の指を吸いながら眠っていた。
その姿が意地らしくて、妻に代わって授乳が出来ればいいと何度思ったことか。
代わりに粉ミルクを飲ませようともしたが、息子は
「こんなもん、飲めるか」と言わんばかりにプイと横をむき、泣き続ける。
それでも翔太は、音をたてるような勢いで成長した。
一か月健診では5センチも身長が伸びていたので、産院の女医を驚かせたそうだ。
三人の子供たちは、生まれた時から性格が全く違った。長女は神経質でよく泣く赤ん坊で、今でも泣き虫だ。
次女は大人しく、じっと長女の失敗を観察しながら学習する要領のよい子だった。
そしてこの息子は退屈するのが大嫌いで、これがまた大変だった。
次女の時はベビーラックに座らせれば、糊で貼ったように1時間でも2時間でも座り続けてくれたが、息子は座らせようとすると怒って泣き出す。
仕方なく抱き上げると泣き止むが、下ろすとまた泣く。
妻の話では、よく泣く赤ん坊ほど母乳もよく飲み、眠りも深いから泣かせておけばいいらしい。
けれども息子も放っておかれまいと、次第に泣き方がしつこく激しくなって来る。
以前テレビの自然番組で、親鳥が鳴き声のうるさいヒナから順に餌を与える映像を観たことがあるが、鳥も人間も子供は親を振り向かせるのに必死なのだろう。
娘たちも初めのうちこそ珍しがって世話を焼いたが、そのうち飽きてしまったようだ。
「ねえパパ、翔ちゃん何とかしてー」
ポチも息子の泣き声に、うんざりした顔をする。犬は人間よりも耳がいいから、なおさら堪えるらしい。
翔太の自己主張は、こちらの我慢の限界を超えるまで続く。
仕方がないので私は度々、彼をベビーシートに乗せて車でドライブした。
車に乗せると、途端に息子は機嫌が良くなる。さっきまでのは嘘泣きだったのかとも思える程だが、彼にとって車窓から見える全てのものが不思議で刺激的だったようだ。
私は運転する時だけ眼鏡をかけるのだが、いつしか翔太は眼鏡をかける私の姿を目で追うようになる。
そして私が眼鏡をかけると、車で出かける合図だと認識して、期待するようになった。
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