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鶴橋タイフェスティバル ─ 白猫「雪子」の里帰り

日本タイクラブの20年アーカイブより(国内活動)
鶴橋タイフェス 白猫「雪子」の里帰り  木本 壽美惠

2010年7月、7歳になった「雪子」(猫)を連れて、鶴橋丸小市場に向かった。

2003年からの7年間、お調子者でお喋り白猫の「雪子」は、いつも元気で明るく、家族を和ませてくれた。2ヶ月年長の長女猫で気難しい三毛猫をたてる奥ゆかしさも持ち合わせ、人・動物共に生きる命の不思議さやバランス意識を実感させてくれた。

猫はテリトリーが決まれば、その外に出ることに恐怖心を感じる動物である。
特に白猫はその目立つ色ゆえ、標的されることが多く、格別に怖がりだと言われている。例にもれず、雪子も他の猫に比べて非常に怖がりであるが、JRを乗り継いで丸小市場に到着した後、実家のお父さん、お母さん、お姉さんの膝に上に納まったのには驚いた。動物に過去はないと言われているが、嗅覚や聴覚などの記憶があるのだろう。偉いものだ。

雪子との出会いは2003年。日本タイクラブで初めて「鶴橋タイフェスティバル」にブースを出した日のことだ。休憩時間に市場をそぞろ歩いていたとき『猫もらってください』の張り紙が目にとまった。親猫の飼い主は乾物屋・西田商店の殿村久さんで、タイフェス関係者のお一人だった。

その時のタイフェス責任者だった尾崎さんの青果店のすぐ近くに西田商店の保冷庫があり、そこで生まれた4匹の仔猫の1匹が白毛に碧眼の雪子だった。いろいろ迷ったがタイフェスの翌週、尾崎さんに連絡をとってもらい丸小市場に仔猫を貰いに行った。

私が働いたことのあるイスラム教の国でいえば、動物は全て人間のために神が作りたもうたものであり、人格や個性のような人間独自の属性を持ち合わせていないと考えられることが多い。

すなわち猫は全てただの猫であり、性格の違いなどはないと聞いた。はたしてそうであろうか?そう思い込むなら人生の不思議に遭遇する楽しみを一つ拒否したことになろう。

私は毎年、雪子の実家へ写真やらジム・トンプソンの白猫Tシャツやら、神戸スィーツなどを送っている。とはいえ、あちらは乾物屋、海老で鯛を釣るというのはこのことで、鮭をはじめとして、返ってくるもののほうが大きいのは恥ずかしくありがたい。

殿村家族とのお付き合いはずっと続いていて、雪子が元気なうちに・・・ということでやっと7年目の里帰りへと至った。これまたタイクラブがくれたご縁、人の温かさと出会い、人生の面白さの一つである。

鶴橋タイフェスティバルは、大阪市が企画した一商店街一国運動で、鶴橋丸小市場がタイ国を選び、始まった祭である。タイ料理屋台ブースをはじめ、タイマッサージ、カービング、タイ雑貨などのテントが並び、舞台では各種のイベントが開催された。ムエタイのリングが開設された年もあった。地域おこしという意味では大成功をおさめたイベントであったと思っている。しかし、残念ながら2002年からの5年で終了してしまった。原因は大阪市の予算不足と聞いた。

2003年、日本タイクラブとして一つのブースを担当し、フェスティバルに参加しようではないか!という話を持ってきたのは、廣島さんである。市場の担当者、尾崎さんと2003年6月17日に顔合わせ、打合せを行った。

タイフェス初年、私はタイクラブ演目の司会をした。タイクラブの紹介をはじめ、皆でラムウォンを踊ったり、タイの歌を歌ったりした。

事前準備のために、ソワポン領事の奥様でタイ舞踊の専門家であるクンさんから、タイクラブのメンバー有志は、男女ペアのラムウォンを教えていただいた。勉強はするもので、その時の教えてもらった手の動きは、今でもタイのパーティなどで踊るときに役立っている。舞台では数組のメンバーがカップルになり、輪になって踊った。私のパートナーは河崎さんだった。女性は色違いの貸衣装を着て、華やかだった。赤木先生はチェンマイ藩主の紫の服を着こなして素敵だった。

当時、タイ王国大阪総領事館勤務の高木さんを先生にお迎えし「歌で学ぶタイ語」教室を不定期の土曜日に開催していた。皆で日ごろの成果を発揮し「タイ国家」や「花」などを歌った。ブースには日本タイクラブの活動やチットアリーの説明などのパネルを貼り、活動をアピールした。


赤木先生はブース前で先頭に立って、日本タイクラブのパンフレットを配ったり、売り子として声をかけたり、チットアリー募金箱を持って呼び掛けをしたり、大活躍だった。物品販売はタイ雑貨の業者さんから借り出したものを売り、収益との相殺をしたのだが、この年の収益金は500円程度、やったことにだけ価値があった物品販売だった。しかし、この活動が後年の「チットアリー物販募金」に繋がっていく。

また、勢ぞろいした大阪のタイ料理店を見て、金子事務局長からレストラン会員割引のアイデアが飛び出した。みんなまだ元気いっぱいだった。ブースの後ろ半分で、どれだけの缶ビールが空になったか数えられない。


2004年、市場の担当者は植田さんに替わった。参加に際し、本格的にチットアリーの物品を売り、募金活動を広げようという方針が決まった。事前準備は大変だったが、何とかチットアリーから買ってきた雑貨を並べることができた。

売上は上出来の25,000円。この年は更に出しものを広げた。タイ衣装・ムエタイ衣装を着て、デジカメで写真撮影をし、持ち込んだパソコンプリンターで印刷、数時間後お渡しするというコーナーを設けたのである。タイレストラン「クンテープ」の川北さんからタイ衣装をお借りして女性用とし、現地でムエタイスタジアムに行き、パンツやバンダナ・グローブなどのセットを買ってきていたので、それらを男性・子ども用とした。

当日、鶴橋の近隣にお住まいの小原さん宅にお邪魔し、みどり夫人にタイ衣装のモデル、長男の成ちゃんにムエタイのモデルになってもらい、宣伝パネルを作成した後、皆で会場へ向かった。今思うと、この年の活動は、かなりしんどかった。でもとても面白かった。売上は6,500円。小原さんの子どもたちの「お父さんは(外へ行くとき)、本当に仕事に行っているの」という言葉が爆笑を誘った。
東京の大使館から、廣島さんの友人でもあるモンコン領事が、大阪に赴任してきたことで、フェスティバルのムエタイリングは大変な盛り上がりを迎えた。モンコン領事レフリーのもと、白熱した試合が繰り広げられた。


2005年は2004年を踏襲しながら活動を行った。あいにくの雨に降られたが、チットアリーの物品は料金を安く設定したことも幸いしてよく売れた。野津先生が教鞭をとっておられた天理大学はじめ、大学のブースも出た。キュートなタイ人歌手が大変な人気だった。16時30分からFM・COCOLO松尾カニターさんの人気番組「ラック・ムアンタイ」のコーナーがあり、私も舞台に上げていただき、チットアリーの募金集めやタイのクイズをなど一緒に行った。

2006年度のフェスティバルは、JICAシニア海外ボランティアとしてトルコへの派遣中、健康診断休暇で1か月日本へ帰国しているときに開催された。例年と変わらず楽しいムードだったが、今年で終わりという一抹の寂しさも漂っていた気がする。丸小市場の皆さんは「木本さん帰ってきたん・・・」と喜んでくれた。楽器を打ち鳴らしながら、皆で練り歩いた最後の年だった。

4年間に渡り、テントの下とはいえ炎天下、椅子も少ないブースでの活動は年配の方々にはかなり堪えただろう。私もしんどかった、しかし、祭とはしんどいものである。しんどさを越えてその独特のにぎわいの渦中にいることが、心躍り楽しく、翌日から続く日常生活の活力となっていくのではなかろうか。

殿村のご家族に聞くと、最近の丸小市場は韓流ブームに押され、様変わりしてしまったという。市場の店舗が減り、韓国ファッションやレストランが増え、ご家族はその狭間で乾物屋を営んでいるらしい。そういえば、鶴橋タイフェスティバル当初の責任者だった尾崎さんは、ラーメン屋経営のあと、丸小市場では消息が分からないそうだ。後を継いだ植田さんは、タイフェスが開催されていた駐車場の管理者をしていらっしゃる。お二人とも市場のお店は手放したようである。

思えば私が40代で副代表になり、廣島さんと一緒に何か賑やかなことがやりたいと思ったとき、突然現れたイベントだった。楽しかった祭も今は昔、時は流れ丸小市場も変容した。

私の側では8歳になった雪子が、仰向けにお腹を出し、足は曲がったままで腕を上に伸ばした、けったいな形でリラックスして眠っている。さすがは鶴橋猫、寝姿もおもろいことこのうえない。いつまでも元気で長生きしてほしい、この猫の年齢が鶴橋タイフェスティバルに初めて参加してからの年月である。

この子が生きている間は丸小市場とのご縁も切れないだろう。

今は雪子の長命が願いである。



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