セマ・ドムデー基金活動に 9年間参加しての懐かしい思い出
日本タイクラブの20年アーカイブより(海外活動)
セマ・ドムデー基金活動に 9年間参加しての懐かしい思い出 冨岡 迅夫
過去20年間の日タイクラブの、海外交流活動を振り返ってみると、この会の発足の1990年11月17日(土)から1995年11月27日までは、活動としての記録はありません。 即ち、1995年から初めての海外交流活動が、セマ・ドムデー基金の活動が始まることによってスタートしたことになります。
セマ・ドムデー基金による活動については基金特集号に譲るとして、この基金活動の第1回目の活動は在ランパン県、ランパン市にあるチットアリー福祉学校への寄付金10万バーツ持参のための訪問で始まりました。1回目の参加者は日タイクラブからは、香月、西、花安、河崎、川島(敬称略)の5名とタイ国文部省の副部長ウイツナイさんなどが現金10万バーツを持って同校を初めて訪問しました。この時が日タイクラブの海外交流活動の最初でした。
私はと言うと第2回目の訪問から第10回目の訪問までを毎回お付き合いさせてもらいました。 今から思えば10万バーツと言えばタイの田舎では、バンコクでの10倍の価値があるとして、学校としては貴重なお金として重宝がられ、また自由に使うことのできるお金として随分役にたつ寄付金として学校施設の拡充のために多いに役立ったと感じました。
第2回目に行った当時はこの学校も生徒数が300人程度のこじんまりした職業訓練学校でした。 私も第2回目から最後の10万バーツを寄付して総額100万バーツになるまで、よくこの学校に通いつめたものと我ながら感心した次第です。
この基金の成功した理由の1つは、この学校の教頭先生のシリポンさんが非常に協力的で、この活動が、この学校の全校挙げての活動となったこと。我々も毎回訪れる度に趣向をこらして色々な行事を行なったことでした。 1年に1回の交流ですが、それこそ今年は何を彼らに見せるのか、と頭を悩ませながら交流のあり方を考えたものでした。
交流も回を重ねると同校の先生方とも親しくなり、生徒たちとも顔見知りになるなど、心の通い合いが始まると同時にタイと日本との文化交流が1つ1つ花が開いて行く感を覚えました。学校の方も徐々にではありましたが、生徒数も多くなり,校舎も整備され、生徒の多様性も多くなり、人的、経済的効果が毎年の交流の度ごとに変わって行きました。 交流の時は、チットアリー校の方からは、山岳民族の子供達はそれぞれの民族衣装を着て踊ってくれたり、タイの食事をもてなしてくれたり、度々恐縮することもありました。
私が思い出すのは、日本料理を彼らに食べてもらった時のことです。日本食の3品。当時交流ツアーの一行もこの交流に途中参加をしてくれましたので、てんぷら、巻き寿司、おでんを同校の厨房を借りて作ることになり、ツアーから参加して下さった女性の助けもあり、皆で作ることが出来ました。私などは慣れない調理の中で、てんぷらを担当させてもらいました。なにしろ、大量のてんぷらを揚げるのに汗をふきふき、よくぞ大量に作ったものと自分でも感心するほどでした。まき寿司、おでんもなんとか作り3品が全部そろって、先生、生徒の皆さんに食べてもらった時は我ながら興奮しました。また、生徒の中で小学生の低学年の子供の民族衣装を着て踊る姿などは本当に愛らしく、可愛く何時までも私の脳裏から離れません。
交流活動は本当に良かった。彼らと我々とのハートとハートの交流を実感した時でした。
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