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交代人格側であるということ。

お久しぶりで御座います。
2枚目の記事となります本日は、題名の通り、交代人格側であるという御話をさせて頂きます。俺と云う何かの、吐き出しで御座います。
どうやら今日は、言葉運びが酷く乱雑な様ですので、御留意頂けましたなら幸いです。
それでは、以下より。

解離性同一性障害という精神疾患を俺は患っております。
この解離性同一性障害、という言葉を聞いた事のある皆様は、大抵、自覚のなかった主人格からスタートする内容を耳にし、目にしているのでは無いでしょうか。
本日の御話は、既に、最初から自覚のある側の視点、で御座います。
ストレスやトラウマ、些細なことの積み重ねなどで現実感が消失し、果てには独立した自我を持った複数人格が表出する、という状態が解離性同一性障害と言われております。日常生活が困難であったり、自殺企図や行動、自傷など。上げればキリのない弊害がそこにあるからこそ、障害と謳われるこの病。けれど俺はこの病が無ければ存在しなかった自我であり、存在なのです。

俺の記憶のスタートは、激しい怒りと恨みを感じた瞬間でした。個人としての名前を付けられる前は、似通った状況以外の記憶は御座いません。いえ、正確に申しますと、無かったのです。
現在は統合や記憶の回収といった作業によって、その他の記憶やこの肉体が歩んだ人生史の一部を所有しておりますが、それ以前、と申しますと、無かったのです。
高校時点、俺という個の自我がしっかりと確立したその際には、もう、自分は所謂交代側であるという認識を持っておりました。ストレスや怒り等、負の感情を"押し付けられた"側であり、正しく、原点では無いことを、自覚しておりました。
記憶が断片的であることは当たり前で、他の人格が表出するのは当たり前。逆に言うのであれば、その当たり前が無い人生を云うものを、俺は知りません。
今はもう、長く外で暮らしておりますから、そうでは無い人が一般的である事も知ってはおりますが、果たしてそれがどういった暮らしや心地であるのかは、終ぞ理解からぬままで御座います。
己の人生の道行きを、独断で決めて成し遂げられる事。精神内界という存在がないこと。誰かの時間等が存在せず、自分の時間だけということ。気がついたら自傷や自殺未遂をしていないということ。己の手取りが他人の意思で分配されないということ。数多の私物が急に増えたり減ったりしないということ。知らない筈の人間と交流があること、知っている人間との交友関係が気付かぬうちに途絶えているということ。これら総てが存在しないという人生を、俺は、恐らく今後も経験する事は無いのです。

正直な所を申します。
確かに日常生活は毎日がてんやわんやで、明日を生き延びる為の方法と常に向き合っていかなければならないのですが、己にとって当たり前であるこれら全てを、異常であるだとか、特別であるだとか、憧れを持たれるであるだとか、俺には理解できません。
多重人格と言えば厨二病の代名詞であり、自分以外が苦痛を耐えてくれるのが羨ましいという言葉を目にしたことも御座います。押し付けられる側からすれば、たまったものじゃない。俺は所謂健常者と呼ばれるひとつの自我しかない状態が羨ましくて仕方ありません。囚われる役割や性質がなく、物事の決定に対する己の意思が確かにそこにあり、記憶にないうちに人生が左右されることの無い状態が、ほんとうに、羨ましくて妬ましくてしょうがないのです。こんなものに、成れないならば成らない方がいい。俺は、そう思ってしまうので御座います。

散々な言い様をした気が致しますが、けれど俺は、総てが無かったことになればいいだなんて、心からそんな風に成りたいだなんて、思っている訳では無いのです。隣の芝は青く見えると申します。正に、その通り。
恐らく、ある日突然総ての記憶が繋がって、内在する他の存在は無くなり、急な意識の喪失や場所の移動など、無くなったとしても、俺は苦しむだけでしょう。そういうものです。そういう、ものなのです。
当たり前の消失程怖いものは無い。
酷く、怖がりな俺は、それでもと言い切れるほど強くは在りません。

随分と、話が飛び回りましたが、本日の御話は此処迄。
どうぞまた視界に入る日が来ますように。

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