推しという言葉の幅と奥行き -Camel Back hallより-
お世話になっております。
豊崎愛生さんコンサート「Camel Back hall」Blu-ray発売記念上映会に足を運びました。
2021年7月25日に行われた中野夜公演の映像化であり、まだまだ苦しい情勢下での開催となった本公演を再び見ることで、少し忘れかけていた大事なメッセージを思い返しました。
「自分の中でも絶対にやるべきだと思ったコンサートだった」
「全部の制作過程にみんながいた、孤独じゃなかった」
「会えることを普遍的にしたい、場所を用意する」
上映会の昼の回で豊崎さんがおっしゃっていた内容なんですが、この言葉を聴けただけで行った価値がありましたね。
いや、改めてCamel Back hall、良いコンサートだったな……
ライブBlu-ray、見てほしい。それが厳しければせめてサブスクでアルバム「Caravan!」だけでも一聴お願いしたいですね。
コンサート上映中、内容を真剣に見るというより、かなり考え事をしながら観賞していました。
豊崎さんのことを知ってから約10年。
この春から社会人という新しいステージへとステップアップする今の状況。
曲ごとのライブの思い出だったり、ある時の人生の岐路のことだったり。
豊崎さんの楽曲は、いわば人生の多感な時期にたくさん聴き込んでおり、
自分の行動の指針に豊崎さんの考え方があるくらい、大きく影響されています。
「私の楽曲は気づかれなくていい、BGMになるくらい生活の一部に溶け込んでほしい」
今日このようなことも言っていましたが、まさにそうなっていて。
それはもう切っても切り離せない、切り離せるなんてできるわけない存在ですよ。
メロディを奏でる楽器一つ一つが、"豊崎愛生"(の声)という楽器の引き立て役ではなく対等に渡り合って絶妙なバランスをもってして成立している”豊崎愛生の楽曲”は、
深く根を張るように、根に染み渡る水のように私の核に取り込まれているわけです。
10年の中で応援の仕方が変化しているということにも気づかされました。
10年前は中学生、それこそはじめは年上のお姉さんを慕うような、はたまた恋愛感情に似たものもあったかもしれません。
大きく変わったのは豊崎さんがご結婚された時だったでしょうか。
正直どのタイミングで切り替わっていたのかは自覚することはできないですが、
今は加速度的過熱ではなく、じわじわと内側から温めるような、基礎体温のような存在です。
ここからは敢えて「推し」と言います。
2022年3月現在、もちろん豊崎さんも推していますが、他に推している同じく声優の夏川椎菜さんや宮沢小春さん、菅野真衣さんはどうだろうか?
最近推し始めたアイドルの丹生明里さんは?
「推し」への熱にバリエーションかつグラデーションを感じたため、ここらで言語化したいとタイピングする指を走らせています。
夏川椎菜さんはクリエイティビティの一面、表現者として輝いている姿から、同い年として頑張らなきゃという思いにさせてくれる先導者、北極星のような存在。遠くで熱を放っていて、それに追いつこうとこちらも熱を放たねばと必死にもがいているイメージ。夏川さんの活動は本当に眩しくて、自分が奮起する糧になっています。
宮沢小春さんは立ち居振る舞いや言葉遣いを尊敬しています。これからの成長を見守って支えてあげたくなるような、熱でいえば現在一番盲目的になってると言っても過言ではない存在です。巣の中で孵るのを今か今かと待ちながら卵を温めてるような熱の込め方ですかね。宮沢小春さんのことを知れる術があるのであれば、できる限り追いたいと思っています。
菅野真衣さんは努力とファンへの感謝が人一倍大きい素晴らしい方です。SNSの更新がマメで、セルフプロデュースが上手い。中でも歌が本当に上手で。歌い始めるとこれまた印象がガラッと変わるんですよ。ギャップに惹き込まれてしまいます。いつ見ても同じ形がない焚き火のような、ずっと眺めて応援していたい何かを持ち合わせています。
丹生明里さんは何といって笑顔が魅力的です。天真爛漫、純真無垢という言葉がここまで似合う人はなかなかいない。初めて本格的にアイドルを応援するようになったんですが、一挙手一投足まで可愛いと思わせるポテンシャルに少々困惑しています。グループ名である日向坂を体現するに相応しい、まさにおひさまのような存在です。
ひとりひとりまとめてみましたが、応援するに至る経緯としては
はじめは声や外見などの分かりやすい情報から惹かれ、徐々にキャラクター、人間性へと移り行く傾向があるみたいです。
宇佐見りんさんの小説「推し、燃ゆ」では推しのことを”背骨”と表現しているそうです。
(これに関してはまだ読めてないので早々に読まなきゃですね)
「推し」とひとことで片づけるのも、他者への説明が楽で便利な言葉ではあるけれども、ひとことで済ませるのは惜しい、なるべく使う場面は選びたい。
そんなことをコンサートを観ながら考えた1日でしたとさ。