先取り都市対抗プレイバック2009①

未だにnoteの使い方に慣れてない部分はありますが、今週も都市対抗プレイバックでアップロードされる予定の2009年の2次予選および社会人野球の背景を振り返りたいと思います。

主な新人選手は昨年の橋戸賞投手の須田、杉本(ともにJFE東日本)、山縣(かずさマジック)、松永、服部(ともに東芝)、吉田(日産自動車→三菱重工名古屋)、榎田(東京ガス)、十九浦(セガサミー)、中倉(住友金属鹿島)、吉元、安部(ともにNTT西日本)、岩見(大阪ガス)、佐川(日本生命)、橋本(JFE西日本)らがいました。ミスターアマ野球の西郷がHondaに移籍したのもこの年でした。
この年の都市対抗の出場枠は当初の32から急遽36に増えましたが、増枠の経緯については後述します。なお近畿地区の出場枠は阪和・京滋奈・兵庫で計6は変わらずも阪和の枠が3から2、阪和の3位と4位、京滋奈と兵庫の次点チームがドーム行きの切符を争う近畿地区最終予選の枠が1から2となりました。

この年の大きな話題はリーマンショックによる影響で、05年および06年の都市対抗で準優勝した日産自動車が野球部を含む運動部全ての休部を発表、TDKも千曲川の野球部が廃部となりにかほ市に統合という出来事がありました。茨城トヨペットも創部1年目にして休部ということもありましたね。
日産の休部を受け、先日亡くなられた当時の会長の松田さんから『休部などもってのほか』という発言が出てきて、一部の社会人野球ファンの間では物議を醸したわけですが、この発言の影響もあってJR勢の都市対抗予選の敗退が相次ぎ、『もってのほかの呪い』というキーワードが一部で流行りました。

なおJABAはこの事態を受け急遽、都市対抗の出場枠をちょうど80回大会ということで従来の32から36に増やしたわけですが、本来は出場枠を38(北信越と近畿、中国と四国でそれぞれプレーオフ)にする予定も突然の通達で球場確保などできなかったためとのことで断念となり、36で収まりました。
この部分を見ても当時のJABAはかなり浮き足立って混乱してた状況なのは見てとれるんですが、思えば00年代半ばからシダックスや三菱ふそう川崎、一光と企業チームの休部が止まらず、日産とTDKの話が飛び込んできた状況では致し方ないと思います。

なおこの頃の社会人野球については、横尾弘一さんの著書『都市対抗に明日はあるか』でも書かれてます。この本を知らない方はぜひご覧いただけたらと思います。(続)

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