
タラントの使い方
じぶんを売り込むためでも、この世に消費されるためでもなく、ただ神さまのためになにかを作ることについて、いまもがき苦しみながら考えているあれこれ。
1. 神さまが求めておられるのは、作品ではなく心である。
ベートーヴェンがその交響曲を1番から9番まで揃えて天国の門に来たら、神さまはなんて言うだろうか。トルストイが戦争と平和を引っ提げて天国にいれろと言ったら? (トルストイの神への感覚はとても好きだけれど)
ひとに永遠の命を与えるのは作品ではない。最近読んでいるマンスフィールドについて考えていた。彼女みたいに死んだあとに評価されるのはどういう気持ちなんだろうと。伝道者の書ではないけど、むなしい。なにかを作ってそれが認められる手応えを求めながら、結局死んだあとに名声を得るのは。べつにゴッホだって誰だっていいけど、彼自身は地面の下で腐っているのだ。作品に何億の値が付けられようと構やしないじゃないか。
水晶のように透明になりたい、とマンスフィールドは願った。もっと良いものを作りたいという願望はつねにある。けれど結局神さまが求めておられるのは、わたしの心が水晶のように透明になって、イエスキリストを映し出すことなのだ。創作はわたしにとっての手段に過ぎない。
わたしは作品のためにすべてを売り渡すひとになりたくない。ファウストじゃないけれど。わたしの人格が作品に伴わなければ、だれがわたしの言うことを聞いてくれよう。イエスは良いかただと言いながら、わたしの心が邪悪なものに満ち溢れていたら?
神さまはこの旅の初めにはっきりとわたしに仰った。あなたの作品が問題なのじゃない、あなたの心をわたしは求めているのだと。それはすこしきつい言葉にも感じた、だってお前の作るものなんかどうでもいいって言われてるみたいなんだもの。でもそれは正しい。最後まで残るのは愛であるイエスだ。
2. この世の歓心を買おうとしていないなら、ひとの顔色をびくびくと伺う必要はない
どうして気になるのだろう、ひとの評価がこんなにも。いいねの一つ一つ、関心や無関心の一つ一つが。作品を公開するのは無防備なじぶんを晒すことだ。
ほかのひとたちはどう感じるのかしらと最近気になっていろいろ読んでいる。マンスフィールドはドイツの宿にてを出版したものの成功しなくて鬱になっているし、ラフマニノフだってトルストイに酷評されてひどく傷ついている。いま思いつくのはこのくらいだけど、たぶんみんなそうなんだと思う。どこかにはきっと鉄面皮みたいなひともいるんでしょうけど。
神さまのために作る、神さまにすべてを捧げる、といってやっている創作だ。最初からだれも読んでくれないことは覚悟している。でも神のためにやっているから、もしみこころならば神はわたしの作品を使って誰かのこころに語りかけてくださるかもしれない。
わたしが求めているのは、ああ上手に書けたねと言われることではなくて、イエスを心に宿して生きるリアリティを伝えることだ。
わたしが売り込みたいのはわたしの名前じゃない。だれかにわたしのことを知ってほしいとか、作家として名を広めたいんじゃない。暗闇のなかの光を、絶望にみちた人生への救いを、神さまの愛のなかに生きることを伝えたいのだ。わたしが伝えたいのはイエスキリスト。創作はその手段に過ぎない。
だから結局くよくよして気に病むくらいなら、わたしの作品の良し悪しもすべて神さまに押し付けてしまっていいんだと、今日近所の公園への道すがら、なにもないところで立ち止まって進まぬ子をぼんやり待ちながら思った。神さまにぜんぶ捧げきっているんですもの、この際責任も、使い方も、すべて神さまに委ねてしまえばいいのだ。
3. 神さまは創始者であり完成者である
何であれ終わりまで成し遂げられた作品には力がある。わたしは三日坊主だから身に沁みる。いままで幾つ書き始めたけれど終わらせなかった作品があることか。完璧なものなんて作れない、けれど最後まで書き終えることを目指して書いている。
いま手を付けている作品は、焦らずすこしずつ書けと神さまから言われており、じぶんで適当なところで纏めあげることも出来やしない。神さまが完成させてくださると信頼しながら書いている。じぶんでコントロール出来ない事柄から信仰が生まれるのだ。
4. 神さまと会話しながら作る
神さまにああ言われた、こう言われたとわたしはよく書くけれど、わかってはもらえないだろうから書いておく。わたしは占いで神託を得ているのでもないし、天がひらいて声が降ってくる体験もしたことはない。
ただわたしの心に囁きかけることばがある。わたしはその声を経験で知っている。どれがじぶんの思いで、どれが神の囁く思いなのか、それはほんとうに微妙な違いで、わたしもまだ時々間違えては大失態を犯すことがあるけれど、でもなんとなくわかるようにはなってきた。じぶんを殺せば殺すほど、その声ははっきりと心のなかに響く。
これが聖霊のバプテスマを受けるということだ、とわたしは思っている。じぶんのうちにイエスの霊を住まわせること。使徒行伝の2章38節。わたしは神と会話しながら暮らしている。その声にみちびかれて、このnoteを開き、二歳児なんかかかえながら文字を書くことを再び始めた。
わたしの心のなかは戦場だ。わたしを貶めようと、自信を失わせようと、書くのを止めさせ諦めさせようとする声がわんわんと響きわたる。すこし自信がある。悪魔がここまでするのはきっとわたしに脅威を感じているからだって。けれどわたしは信じる、わたしをここまで連れてきた神さまを。神さまは決してわたしを裏切らない。ちいさな励ましを小出しにして、日々わたしをすこしずつ前へと進ませてくださる。そして時にすこし離れた場所で、わたしが鍛えられ、起きあがるのを見守っておられる。
どこに連れていかれるのかわたしにはわからない。でも繋いだ手を信じて歩んでいる。聖書の神のことを、イエスキリストのことを等身大の日本語で書くこと、葛藤をかくすことなく、宗教的ではない自然なことばを見つけること。もし神さまがわたしの文章を使って、だれかの心に触れてくださるなら、わたしにはそれ以上望むことはない。