わたしのなかのキリスト
「彼らは証しの言葉と、子羊の血によって打ち勝ったのである」と黙示録にあるけれど、最近わたしは、こぽこぽと泉から水が涌き出るように証しを生み出していた。辛いとき、それを賛美に変えてしまう力が、わたしの内側に自然と生まれでて、じぶんでも驚いていた。これはわたしの力じゃない。わたしのなかに住んでいるキリスト、聖霊のちから。
苦しみを賛美に変え、キリストについて証しするたびに、わたしの困難は増していった。まるですべての方面から攻め立てられているように。わたしはまるで研磨される原石みたいに、さまざまな方角から削られている。
哀歌にこんな言葉がある。「わたしの魂は平和を失い、幸福を忘れた。わたしの生きる力は絶えた。ただ主を待ち望もう」
すべての方角が塞がっているとき、わたしは上を向かざるをえない。右も左も、後ろも前も苦しみと試練で塗りつぶされているから。「ただ主を待ち望もう」と言ったエレミアも、深い穴の底に投げ込まれて、上を見上げたのだった。わたしを救いだしてくれるひとは、上にしかいない。
「わたしの生きる力は絶えた」と思ったとき、神様はわたしに大切なみことばを思いださせてくださった。座右の銘のようにしていたそのみことばを、わたしは忘れていたのだ。「主の喜びが、わたしの力です」というそのみことばを。
わたしは証しし続ける。キリストがわたしのなかに生きていること、わたしに『あなたはわたしのもの』と囁いてくださったこと。苦しいときこそ、賛美が解放の鍵であること。
わたしがキリストにむかって進めば進むほど、攻撃は激しくなっていく。けれど、神さまがわたしに与えてくださる武器だって、それと同時に鍛えられ、強くなってきているのだ。