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恋に落ちれば (短編集)

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キリストと恋に落ちれば、というテーマの短編集。
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#短編小説

揺らぐことない都 (短編)

揺らぐことない都 (短編)

*この小説は作り話であり、実際の団体や
人物とは関係がありません*

↓あずさの車中で

 「まつもとぉ、まつもとぉ」

 というノスタルジックなアナウンスとともに、鷲尾夫人はまあたらしい桔梗色の列車を降りた。やっぱり寒いわ、と灰色のコートの襟を正して、どこか寂しげな、味気ないホームを見回す。いいえ、まだだわ、雪をまとった常念岳を見なくては、わたし、故郷に帰ってきたという気がしないの。

 改札を

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その先にあるもの (短編)

その先にあるもの (短編)



*この小説は作り話であり、
実際の団体や人物とは関係がありません*

 「そう、そうね、大変じゃないなんてことないわ」

 歌うように、彼女は言った。泡だらけのスポンジを手に、汚れたカレー皿と戦いながら。かろやかな音楽を漂わせた、いつまでも夢みる少女のようなひと。その傍にいて感じるのは、心のなかにある涸れない泉の存在。ぼくでなくとも、ついつい引き寄せられてしまう。

 「なんでいまさらそんなこ

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わたしのものではない戦争 (短編)

わたしのものではない戦争 (短編)


*この小説は虚構であり、
実際の団体や人物とは
なんの関係もありません*

 地獄の底から響いてくるような声だった。まずは小さく始まって、「ゥゥゥウウウ」という唸り声はすぐ「ウワアアアアアアア」という叫びに変わった。大丈夫? と仄かな灯りに照らされた寝顔を覗くと、苦悶の表情。けれど夢からは決して覚めない。

 彼がどのような地獄を見てきたのか、わたしにはわからない。けれど毎晩のように聞かされる叫

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この存在のすべて (短編)

この存在のすべて (短編)

*この小説は作り話であり、実際の団体や人物とは何の関係もありません*

 あの日の記憶を、始めから終わりまで筋立てて話すことは出来ない。ふたりで常念岳に登った日の記憶は、もう薄れかかっている。映像のように、あの日撮った一連の写真のように、静止画のようにしか思い出すことは出来ない。

 黙々と暗闇を歩いてきた田口と真木は、ようやく朝日の射してきた頃、沢のほとりで休んでいた。朝の森はオレンジ色に輝いて

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見殺しにはできない (短編)

見殺しにはできない (短編)

 《I can't let you die like this》

 
 葉書のうらの小さな地図でたどり着いたのは、まさかこんなところにギャラリーが、というような場末の通りだった。飲み屋の並びにある古いビルの、裏階段から二階に上がった部屋を、もうすぐ閉廊という時間をねらって灯は訪れた。細い路地の直線のような空に月がかかっていて、もうすこしで満ちそうな晩だった。

 灯の姿をみて、ひとりパイプ椅子に

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逃げたいという願望 (短編)

逃げたいという願望 (短編)

*この小説は作り話であって、実際の団体や人物とはなんの関係もありません*

 《A desire to get away》

 
 ある思いに取り憑かれていた。それは逃げたいという願望だった。突然だった夫の死の後、まだ心の整わないうちから、相続だの事業継承だのの手続きに追われて、いつしか八枝はすべてを捨てて逃げてしまいたい、と思うようになっていた。

 昨日と今日とに境はなかった。あるのは手続きの

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もし神さまがいるのなら (短編)

もし神さまがいるのなら (短編)

*このお話は作り話であり、実在の団体や人物とはなんら関係がありません*

 《 If God ever exists 》

 喫茶店の奥には庭がある。壁に閉ざされた狭い空間で、ガラス越しに眺めていると、降ってもいない雨の感じがした。目の前に座っている彼は、今しがた伝票を手に去っていったひとから、ゆっくり尖った視線を戻すと言った。

 「母さんは宗教にハマってるんだよね」
 
 宗教、宗教ねえ。すっ

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ひとが恋に落ちる瞬間 (短編)

ひとが恋に落ちる瞬間 (短編)

*このお話は作り話であり、実在の団体や人物とはなんら関係がありません*

 《I saw the moment you fall in love》

 
 白い病室のなかは静かで、後ろで祈っている牧師の呟き声と、夫の絶えゆくかすかな息遣いだけが、そこを満たしていた。

 枕元に映しだされた心拍は、次第に弱くなっていった。すぐに止まるわけでもなく、沈んでいく夕陽のようにゆっくりと、でも確実に、真木の

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水晶の夜 (短編)

水晶の夜 (短編)

 

*この小説は作り話であって、実際の団体や人物とはなんら関わりはありません*

 
 
 《the night of broken glass》

 
 あの夜に漂っていたのはなあに。なにかがはじける前の、ガラスみたいな緊張感。遠くにいても感じていた。なにかが起こるに違いない、って。

 淡い闇が街を覆いはじめた。ひとだかりのする方角から、夏祭りのうたが聴こえてくる。ぼんぼん、ぼんぼんぼん、と

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