去年のことになりますが中川裕貴「弭(ゆはず)」

※加筆、訂正は随時行います。

去年の12月28日(13:00、18:00)29日(13:00)の三回、ロームシアターノースホールで行われた公演。
28日の18:00の回と29日の13:00の回の二回観た雑感を、今更ながら忘れそうなこともありまとめてみた。

ステートメントには下記のようなことが説明されている。
>弭という文字は「ゆはず」と読み、弓道などで用いる弓の両端にある「弦(つる)をかける場所」のことを指します。
このコンサートはその文字通り、弓と耳という2つの側面、そしてそれに関係する「チェロ」が中心に添えられ、ヒトの声に近い成分をもつと言われる楽器から、さまざまな「声」を、「弓」が引き出し、観客の「耳」に届けます。<

中川くんの自作のバッハ弓は片側が固定されていない。だからつるの張力を保つために自分で調節しながら弾くことになる。
バッハ弓自体が音のコントロールが難しい楽器だと思うが(足立智美さんとのアフタートークで弓は「楽器」に属するのか「演奏者」に属するのか、というとても興味深い話もあった。)、中川くんはそのコントロールできない部分をコントロールするという逆説的なことをやろうとしているのかな、と思っている。使い始めた時よりもはるかに豊かでコシのある音に変わっているのがその証拠ではないか。
そういった通常の楽器演奏とは別の視点から(楽器と演奏者との関係を問うことで)自分の演奏を深化させようとしているのではないか。今までロームシアターで行ったコンサートも、今回もそういった試みの一つではないか、と思う。

今回は「時間」と「録音」との関係を突き詰めようとしていたのか?
始まってすぐの語りが実は録音であったことが途中で明かされる、そして録音とリアルタイムでの語りが重なり「意味」を追いかけることが困難になる。
パフォーマー二人でのセッティングが続くが、そのセッティングが無意味であったことが徐々にわかってくる。わかった時点で過去の行為がセッティングという意味のあるものから無意味なものに変容する。時間を遡って過去の認識が徐々に変容していく。
「時間」と「録音」とこちらの「認識の変容」の関係を意識せざるを得ず、大変興味深かった。
「録音(物」の過去の意味を変容させ自己の表現に昇華するDJ を今回入れたのもその関係性を補強するものだったのか、とも思った。
ただDJのセッティングが照明、PA席と同じ扱いで、しかも音も頭上のスピーカーから結構な音量で流されるのでバックグラウンド化していたのが惜しかった。DJを入れた意味(私が思っていることが的外れであったとしても何らかの意味はあったはず)を際立たせるセッティングと音の処理があれば、と思った。

休憩前後での印象の違いも気になった。前半はそういったコンセプチュアルな部分が面白くもあったが、後半は普通の演奏会としての比重が大きくなったように思えた。とは言え1729のDJと中川くんの演奏は十分に聴きごたえはあったのだが。

あともうひとつ気になったのが照明。照明の明滅が急激だと演奏と別のリズムができてしまう。光の刺激は音よりも大きい。しかも光の立ち上がりと音の立ち上がりは根本的に違う。途中で意味が全くわからない照明の明滅があった。1日目に観たときは結構気になってしまった。二日目は激しい明滅はなかったが光量のアップダウンはあった。あれは何だったのだろうか?

今回、独創的な視点もあるし音楽が成り立つ意味を追及する試みとしても面白いことをやっていたとは思うが、どうもチギハグな部分が目立ったように思える。演奏は申し分がないのでどう観たらいいのか戸惑った部分もあった。


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