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短編小説:私が旅をする理由#1「いつか海になる日」

夜明けを背負いながら、町を行く。

静かで、でもかすかに目覚めた人たちの気配が息づくこの時間に、ゴロゴロと響くキャリーの車輪。清らかな朝を少しずつ現実へ引き連れる感覚が居心地悪く、少し早足になる。

駅に着き、エレベーターの前でひとつ大きな息を吐く。立ち止まると思いのほか息切れしていた。


――旅が好きだ。

バックパッカーほどではない。例えばアジアやアフリカに行って、時間という言葉を忘れたような駅で右往左往したり、ボロボロの現地バスに乗ってお尻を痛くしながら移動したり、路地の食堂でごはんを食べて現地の人と交流するとか、そこまでの冒険はできない。
しっかりめに計画を立てて、それなりに安全なルートを選ぶ。交通手段も自信がなければお金を払って安心できるものを用意する。トラブルがない限りは予定した行程の通り旅をして、それだけ。

それでも旅は、知らない土地へ行くことは、私にとって重要な行為だった。
内省とか、自分と向き合うという言葉が近いのかもしれない。けれど、もっと後ろ向きで、後ろめたいことだ。重苦しく、決して他人と一緒にいてはできないから、一人で旅をする。

一人になると色々なことを考える。
くるくると巡る思考は、特に一定のテンポで歩いたりなんかしているとどんどん加速していく。それは自転車に似ている。一定数漕ぐと、ひとりでに走り出す。しっかりハンドルを握らないとグラグラと傾いていく。
大抵はろくでもないもので、例えば仕事の帰り道なんかは「ああ消えたいな」くらいまで潜ったところでふと浮上して、何事もなかったかのようにスーパーに入ったりする。

でも、旅をしている時はそこで思考を止めない。
知らない土地というシチュエーションが感情的にさせるのだと理由をつけて、ただひたすらに潜る。ひたすらに、深く、深く。


自分のことが嫌いだ。
許せない。
でも幸せになりたい。
まともになりたい。
欠落している。
日々、消耗するような生き方をしている。
消耗していてもやることがある方が気が楽だ。
早く擦り切れてしまいたい。
許されたい。
許されないでいたい。
どこにも行けない。


でも、生きている。

歩いて、バスに揺られて、たどり着いたのは断崖の鼻先だった。波の音が強い。リラックス音楽に波の音が入っていたりするけれど、これは全く異なるものだ。ごうごうと台風を連想させるような低音が鳴り続けたかと思うと、すべてを打ち捨てるような波の音が耳をたたく。これが陸を削って形作っているのだと分かる音だった。

天気は曇りで、風が強かった。
わたしの好きな天気。

行き場のない日々に少しずつ削れていっている自分というものが、そのまま風に乗ってさらさらと消えるように錯覚する。

波は空の光を通さず青黒い。良い色だなと思った。こんな色のコートがあったらちょっと欲しいかもしれない。

散漫に、でもひたすらに、辿り着いた先からさらに深く潜っていく。こういうのは、居る場所も相まって傍から見たら入水でもしそうに見えるのかもしれないな、と思う。

自分から死ぬことは絶対にない。
だって、全うしたいから。

何をと言われると答えられないけれど、とにかく日々を続ける意志だけははっきりしている。
憂鬱な日もある。悲しいことも、苦しいことも、後悔に圧し潰されて何もかも投げ出したい日も。嬉しい日や楽しい日だって、やわらかな気持ちに永遠を感じる日だって訪れる。ひたすらに明日はやってくる。来てほしくなくても、強制的に連綿と続いていく。抗いようがない。


波が黒い岩に叩きつけられるようにぶつかり、弾けていく。

旅は錨だ。
私が毎日を全うしていくための、錨。
大きくうねる自分の心にさらわれてしまわないように。

波が砕けたかと思えば元のひとつの大きな水になるように、傷ついて、擦り減って、泣き叫んだってそう簡単に散ったりはできないまま、元の私として生きていくしかない。

自分を許す必要なんてないのだ。
許せないまま、生きていく。

時々それをしっかりと思い出して、安心したかった。忘れてしまうことが何よりもおぞましい。

旅に出て、深く深く潜る。
削れて散り散りになったと思い込んでいた自分の破片をかき集めて、内なる海へと還す。

そうして自分という海を思い出したのなら、また波のような日々へと戻るのだ。

―――


エレベーターのドアが開く。

辺りは真っ暗で息は白かった。
数日の旅から戻ると、東京にもすっかりと冬が来ていた。
新幹線で飲んだビールのアルコールがほんの少し残った体に、冷たい空気が気持ちいい。

これから眠りにつく街を、キャリーの音で滑り抜けていく。

帰ったら眠い体を叱咤して荷ほどきをして、お風呂に浸かろう。
抗うことのできない明日という存在に、できるだけ、凪いだ私でいられるように。



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