はじめに
アレクサンダーが登場するのは1886年からだ。彼は1885年にワラタへ行き仕事を見つけ、翌年1月頃にビショフ山スズ鉱業会社に務めた。彼の趣味はヴァイオリン、演劇、競馬だった。ヴァイオリンに関連した彼の記事は見つからないため、ここでは演劇と競馬についてまとめる。引用文の太字は、筆者が加えた。
演劇
彼が最初に現れた記事は主に二つ。まずは1886年3月にアマチュア演劇に参加した記録がある。彼は「F. Alexander」で活動していた。
この演劇についてどの伝記も参照していなかったが、F. アレクサンダーは、同年9月の演劇にも出演している。
J. Evansの"A Family History"では、この9月の演劇を参照していたので、この記事も同一人物と考えた。
The Octoroon
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Octoroon
彼の演じた「ポール」は第二幕に登場し、郵便物を運ぶ奴隷の少年だ。借金取りからの手紙を運んできた彼は、元テレボンヌ提督のマクロスキーに取り押さえられ、殺される、そんな役だ。
次に登場したのは、同年9月11日の記事だ。
原文において登場人物名が実際と異なるのは、新聞記事の誤植だろう。実際はGibsonだが記事ではGibeonになっている。ここではそのままにした。
トム=テイラー作『The Ticket of Leave Man』は、アレクサンダーが気に入っていた脚本の一つ。後にジェームス=カスカート氏にも脚本をもらってレパートリーとなった。一緒に出演したF.A. ホーンは彼の会計事務所の上司だ。アレクサンダーの演じたサム=ウィロビーは第二幕と第三幕に登場する。
これらの記事により、彼がワラタへ移住当初から演劇クラブに参加していたとわかる。
競馬
彼が生涯の趣味としていた競馬がある。彼は1886年末の競馬に調教した馬を出走させた。彼の訓練していた馬は青鹿毛の牝馬で「エステル」と呼んでいた。
彼の馬は敗者復活戦で優勝し、7ポンド10シリングを得たが、本戦では2着だった。エステルが出走したレースはこれだけで、高齢馬だったため引退したかもしれない。
その他の活動
1886年5月26日の記事によると、ワラタ道路公社で料金徴収人に任命された。しかし、1887年12月13日の記事では退任し)、ビショフ山スズ鉱業会社の支配人が後任に就いたとある。
1886年6月19日の記事によると、ワラタ体操クラブで書記を務めたとある。ワラタの待ち自体が鉱業によって発展し、鉱業会社の支配人カイザー氏が町全体のまとめ役のようなものだった。自伝では思い出しておらず、自らの意思か定かではないが、そんな地域活動にアレクサンダーは一員として参加していた。
おわりに
FMがワラタに滞在した期間は1886年から1888年だが、1888年の新聞でアレクサンダーの名を見つけられていない。
[1] 当時の英国国際通貨、ソブリン金貨(ソブリン金貨 - Wikipedia)
[2] 出走馬に均等に勝利できる機会を提供するレース(ハンデキャップ競走 - Wikipedia)
[3] アレクサンダー氏の伯父が経営、FMは滞在していた。