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新聞記事で追いかけるFM(1)


はじめに

アレクサンダーが登場するのは1886年からだ。彼は1885年にワラタへ行き仕事を見つけ、翌年1月頃にビショフ山スズ鉱業会社に務めた。彼の趣味はヴァイオリン、演劇、競馬だった。ヴァイオリンに関連した彼の記事は見つからないため、ここでは演劇と競馬についてまとめる。引用文の太字は、筆者が加えた。

演劇

彼が最初に現れた記事は主に二つ。まずは1886年3月にアマチュア演劇に参加した記録がある。彼は「F. Alexander」で活動していた。

この演劇についてどの伝記も参照していなかったが、F. アレクサンダーは、同年9月の演劇にも出演している。

J. Evansの"A Family History"では、この9月の演劇を参照していたので、この記事も同一人物と考えた。

ワラタの演劇 特派員からの手紙、6日、ワラタで建設予定のタウン・ホールの建設資金を援助するために、演劇公演が行われました。舞台装置や付属品の不足にもめげず、アマチュアらしく謙虚に、ディオン=ブシコーの有名な劇「オクトルーン」が選ばれましたが、結果は劇的にも経済的にも成功したと評価されました。各役の配役も的確で、リハーサルには大変な苦労を要したに違いありませんというのも、プロのレベルにこれほど近づいたアマチュアの公演はめったにないでしょう。この作品の参加者全員が、自分の役柄の精神を存分に発揮しているように見えました。グループ分けとタブローに細心の注意が払われ、このような場ではやや珍しいことですが、どの台詞もとても完璧で、プロンプターの役目が楽な仕事に見えたほどでした。この劇には語るべき登場人物が多く、ハリス氏のジェイコブ=ムクロスキー、セント=クレア氏のセーラム=スカダー、F. アレクサンダー氏のポール、ライル氏のワウノティー、ウィリコム氏のポイントデクスター、彼らは満員の観客を十分に満足させて、豊かな笑いと頻繁な拍手でそれを証明されました。ハーヴェイ氏はジョージ=ペイトン役がかなり良く、もう少し生気があれば文句なしだったでしょう。これほどまでに、老黒人のピートを表現している者はベイド氏の表現以上にいないでしょう。ゾーイ(オクトルーン)、ドーラ=サニーサイド、ペイトン夫人は、セント=クレア夫人、レナード夫人、ルート夫人によって見事に演じられ、数多くある脇役もすべて立派にこなされました。一般的な要求に応え、早期に再演することを発表しました。

1886/3/11 ロンセストン・エグザミナー紙

The Octoroon

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Octoroon

彼の演じた「ポール」は第二幕に登場し、郵便物を運ぶ奴隷の少年だ。借金取りからの手紙を運んできた彼は、元テレボンヌ提督のマクロスキーに取り押さえられ、殺される、そんな役だ。

次に登場したのは、同年9月11日の記事だ。

ビショフ山 フェデラル・アマチュア演劇団は、11日土曜日の夜、ワラタの新しいメカニクス・ホールを支援するために興行を行った。この日のために選ばれた作品は、よく知られた劇『The Ticket of Leave Man』を次のキャストで行った。ロバート=ブライアリーをW. ハリス氏、ジェームズ=ダルトンをジャス= ソーン氏、ホークショウをC. レナード氏、メルター・モスをA. ウィリコム氏、ギベオンをF. A. ホーン氏、サム=ウィロビーをF. アレクサンダー氏、モルツビーをW. ヒートン氏、メイ=エドワーズをW. セント=クレア夫人。丁寧で完成度の高い演技に誰もが驚き、出演者たちは惜しみない拍手が送られた。演者の誰かの名を挙げるのは不公平ので、ここでは、有能な審査員によって、アマチュア、プロを問わず、ワラタでの史上最高の演技と見なされている、とだけ言っておこう。

1886/9/23 デイリー・テレグラフ紙

原文において登場人物名が実際と異なるのは、新聞記事の誤植だろう。実際はGibsonだが記事ではGibeonになっている。ここではそのままにした。

トム=テイラー作『The Ticket of Leave Man』は、アレクサンダーが気に入っていた脚本の一つ。後にジェームス=カスカート氏にも脚本をもらってレパートリーとなった。一緒に出演したF.A. ホーンは彼の会計事務所の上司だ。アレクサンダーの演じたサム=ウィロビーは第二幕と第三幕に登場する。

これらの記事により、彼がワラタへ移住当初から演劇クラブに参加していたとわかる。

競馬

彼が生涯の趣味としていた競馬がある。彼は1886年末の競馬に調教した馬を出走させた。彼の訓練していた馬は青鹿毛の牝馬で「エステル」と呼んでいた。

マウント・ビショフ・レース
27日、28日に開催される上記のレースについて、以下の通り指名を受けました。
……
ワラタ・ハンディキャップ[2]―20ソブリンの内、2着馬に5ソブリン[1]を与える、掛け金から。1マイル。受理、1ソブリン。マウント・ビショフ・カップの優勝馬は10ポンドのハンディキャップを課す。
T. キージング氏 鹿毛 牝馬 アメーラ 高齢
C. T. フォード氏 鹿毛 牝馬 フェア・ネル 高齢
L. カウンセル氏 鹿毛 牝馬 ラーンダー(前ロラーナ) 高齢
F. M. アレクサンダー氏 青鹿毛 牝馬 エステル 高齢
……

1886/12/1 ロンセストン・エグザミナー紙

彼の馬は敗者復活戦で優勝し、7ポンド10シリングを得たが、本戦では2着だった。エステルが出走したレースはこれだけで、高齢馬だったため引退したかもしれない。

タスマニアン・インテリジェンス 
(私信から)
……
ワラタ、12月31日
マウント・ビショフ・レースの準備が昨夜、ピアース・ホテル[3]で行われ、D. ジョーンズが議長を務めました。以下の金額が支払われました。
……F.M. アレクサンダー氏、敗者復活戦で一着、7ポンド10シリング、……

1887/1/1 ロンセストン・エグザミナー紙

その他の活動

1886年5月26日の記事によると、ワラタ道路公社で料金徴収人に任命された。しかし、1887年12月13日の記事では退任し)、ビショフ山スズ鉱業会社の支配人が後任に就いたとある。

任命 以下に道路公社の人事を紹介します。
……
ワラタ-F. M. アレクサンダー、徴収員。
……

1886/5/26 マーキュリー紙

地域と一般
……
任命―ワラタのH. W. F. カイザー氏が、辞職したワラタ道路公社のF. M. アレクサンダー氏の後任として、1887年度の料金徴収員に正式に任命されました。
……

1887/12/13 タスマニアン・ニュース紙

1886年6月19日の記事によると、ワラタ体操クラブで書記を務めたとある。ワラタの待ち自体が鉱業によって発展し、鉱業会社の支配人カイザー氏が町全体のまとめ役のようなものだった。自伝では思い出しておらず、自らの意思か定かではないが、そんな地域活動にアレクサンダーは一員として参加していた。

おわりに

FMがワラタに滞在した期間は1886年から1888年だが、1888年の新聞でアレクサンダーの名を見つけられていない。

[1] 当時の英国国際通貨、ソブリン金貨(ソブリン金貨 - Wikipedia)
[2] 出走馬に均等に勝利できる機会を提供するレース(ハンデキャップ競走 - Wikipedia)
[3] アレクサンダー氏の伯父が経営、FMは滞在していた。

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