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友人を撮ると、私が共有するデータは異常な数を叩きだす

素人ながら、日々写真を撮る腕が上がっているような気がする。

その道のプロと比べられたらとんでもないことだが、それでも写真を積極的に撮らない友人や知人たちに比べたら「得意な方だ」と言うことくらいはできるだろうと思う。(比べるものでもないのだけれど)

とはいえ写真を勉強しているわけでもないので、一眼レフを持っている人や、写真を仕事とする友人の作品をみると「やっぱり違うな!すごい!」と手放しに思うわけだが。

プロ並みでなくとも趣味の範囲で素晴らしい写真をシェアする人は増えているわけで、ひとたびinstagramやtwitterを開けば、我こそはというように自分の好みに合った写真たちが癒しを授けに来てくれる。
ただただ作品として眺めたり、情報が詰まった風景からその現物に興味を抱いたり。観賞する分には、その時々の気分でも楽しみ方は変わる。

ただ自分が「撮る」という行為に回る場合、少し意識していることがある。
それは、なるべく「人物」を撮るということ。

私にとって写真というのは、やっぱり「思い出」なのだ。
忘れっぽいということもあって、楽しんだ記憶はなるべく写真や動画というデータとして、後から見返せるものとして残すことを大事にしている。

すべての記憶を未来へもっていくことはできないけれど、欠片さえあれば、そこから波紋が広がるように思い出せる風景もある。
その瞬間が大好きだということも理由の一つだ。「思い出す」という体験ができるのはその時だけなのだと考えてみれば、忘れるということもそう悪いものでもない、と私は思う。

友人たちと遊びに行ったり、旅行をしたり。私は友人たちの楽しそうにしている姿を撮るのが大好きで、後日のLINEのアルバムでは、私が共有する写真や動画だけ異常な数になっていたりするのはもう毎度のことだ。
なるべく自然な姿を、と奮闘しているうちにどうしても多くなってしまう。選別するのが少しだけ億劫になったりもしている。

ただ、そうしていると、逆に私が撮られていることが少ないのだ。
共有した写真の中で私の姿はあまりなく、寂しく思ってしまうことが多々ある。その友人たちと一緒に「楽しんでいる自分の姿」があまり見られない。

かといって、それは強要できるものでもない。
幸いにもこの気持ちを理解してくれる友人はいるので、お互いに撮り合ったり、一緒に写ったりすることも増えてきているのだ。心からありがたいと思う。そうして、私は楽しそうな自分を見て幸せな気持ちに浸る時間を持つことができているのだから。

こういった価値観が合う人と長めの旅行に出ると、きっと楽しい。海外旅行では写真に動画に、アプリでスライドショーも撮ってみたりして、数年経った今でも、時々その友人と一緒に見返しては旅行中の興奮した気分に戻っている。そして、「次はどこに行こうか」と、未来の話をするのだ。

「思い出」は過去を振り返るだけのものではなく、未来を描くためのきっかけにもなり得る。
だからこそ私は、これからもきっと、大切な人たちの姿を誰よりも大量に撮っていくことだろう。

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