バラバラでもなお、共存しうる作法
ここ10年来、社会における様々な「分断」を憂う意見をよく目にする。
どうも引っかかる。
実際のところずっと昔から、「分断されていない状態」など無かったのではないか。単にかつては共同体の圧力によって、人々は強制的に凝集させられていただけなのではないか。そしてその中で、我々はあってしかるべき差異を語る言葉を獲得する機会を持ち得なかったに過ぎないのではないか。
その共同体が弱体化し、社会が流動化し、「元から存在したあらゆる分断」を、インターネットが可視化しただけなのではないか。
もちろん、インターネット上にも新たな「凝集」は見られるが、それはその時々のコミュニケーションコストが低い方向に人々が流れ、インスタントな共同体もどきがつかの間、現れては消えているだけであるかのように感じられる。
むしろ全てがバラバラだった状態がこのようなメカニズムによって二つの島に「凝集」することが、皮肉にも「分断」「二極化」として観察されているだけなのではないか。
分断を解消しようとする試みは、偽の問題解決のように感じられる。我々に必要なのは、バラバラでもなお、共存しうる作法なのではないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?