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最も崇高だとされるものこそ、最も粗末に扱われる
「資源のない日本にとって人間こそ最大の資源である」といったようなことを言いながら、その人間という資源をたいへん粗末に、無駄に使ってきたのがこの社会なのではないか。
それは、「人間という資源は「心の持ちよう」次第で無尽蔵である」という意識を、その資源を消費する側(消費者も経営者も資本提供者も為政者も)が持ち、かつそれと整合させる形で資源を持つ本人にもその考え方を内面化させてきたが故なのであろう。
人間が最大の資源であるのはよいとして、それが(たとえ増やしうるにせよ)「稀少資源」なのだ、という発想の転換を行う必要がある。
もちろん、だから「使うな」「使う量を減らせ」と言っているのではなく、いかに使うか、いかに増やすか、ということを、その第一のオーナーである我々自身も、社会全体としても、真剣に考えなければならない。
これは「人間を資源よばわりするな」「「人材」という単語を使うな」といった考え方とは座標軸の異なる話だが、(粗末に扱うにせよ大切に扱うにせよ結局)人を資源として扱っているということで上記のような考え方をする人々には不興を買うだろう。
しかし実は、「人間は資源ではない(もっと崇高なものだ)」という考え方は逆説的に「人間という資源は無尽蔵であり、粗末に扱っても良い」という考え方と共犯関係にあり、前者は後者の温床になっているのではないだろうか。
むしろ人間は「希少資源である」と認識することによってこそ(これは人間は資源「でしかない」という意味ではなく、人間は多様な意味のレイヤーと多様な機能と「機能であらざるもの」が折り重なった存在であり、そのたった一つが「資源としての機能」であるにすぎないという意味)、人間の無限の資源化に実効的に抗い、「人材」概念を批判する人々が守ろうとしている「人間的なもの」についてマトモに考える唯一の道ではないか。
なぜならば、あるものを「崇高で、資源化不可能、測定不可能なもの」とするやいなや、それを「マネジメントする」という視点がすっぽり抜け落ち、逆に極めて粗雑な、ぞんざいな、そして皮肉な言い方をすれば「オレが考える崇高な扱い方」が跋扈し、野放しになってしまうからである。
そのようなことは、これまで歴史上幾度も繰り返されてきたではないか。これでもまだ騙されるのか。自分自身を始めとして、人間をそんなふうにうかつに「信じて」はいけない。
最も崇高だとされるものこそ、最も粗末に扱われるのだ。