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機能分化する社会と、テクノロジーによる機能の代替は、人間をどこに連れて行くのか?

「太陽が存在するからといって、光とエネルギーを作る仕事が人間から奪われた、と訴える者は誰もいなかったと言うのに」


今から書くことは、「お前の頭は中学生か」と言われるようなことだと思う。しかし、それは気にせず書くことにする。

「AIが人間の仕事を奪うこと」が懸念されるのは、現代社会が機能分化しており、分業体制にあり、個々人がそれぞれ部分的な役割を果たすことによって対価を得て、その対価で自分が生きていくために必要な「他人の提供する役割」を「買って」いるという条件下において、特定の役割がAIに(より安価に、あるいはより高性能に)代替されてしまうと、その役割をそれまで担っていた人間が対価を得ることができなくなり、自分が生きていくために必要な「他人の提供する役割」を購入できなくなってしまうからである。

裏返せば、機能分化していない社会において完全自給自足をしている人間にとっては、AIがどれだけ高性能であろうとも生きていくのには全く関係ないということになる。

AIにせよロボットにせよインターネットにせよ、あらゆるテクノロジーは、社会の機能分化が生み出したソリューションだと言える。分業するということは、自分の担当業務に社会が価値を認めてくれなくなるやいなや、それ以外の業務を見つけることができなかった場合、生きていくことができなくなるということである。だからこそ、そういったことを防ぐために福祉制度が存在するのだが。

またテクノロジーの導入は、我々が現在就いている仕事の「負担軽減」を意味するが、これは決して福音ではない。最初は仕事が楽になるかもしれない。しかし「仕事の負担が減って楽になった」ということは、その仕事への参入障壁が下がったということを意味する。つまり競争が高まり、より高いクオリティ、もしくはより低い時間単価で同じ仕事をこなすプレイヤーが現れたら、自分はその仕事を失うということである。

テクノロジーは社会の機能分化を効率化する為のソリューションであり、時間経過とともに社会の機能を次々に代替していく。テクノロジーに代替されずに最後まで残るのは、「言葉で説明することはできないが何故か欠かせない、存在していると非常に良いと確信できる得も言われぬもの」なのだろう。

さて、先程、「機能分化していない社会において完全自給自足をしている人間にとっては、AIがどれだけ高性能であろうとも生きていくのには全く関係ない」と述べた。では、もし万が一自給自足できるAIが開発されてしまったらどうなるのか(機能分化していない社会にそのような科学技術があるか、という疑問はとりあえず置いておくとして)。

それでもやはり人間の立場は揺るがない。なぜなら、自給自足することは機能ではなく、「存在するだけで意味があり、他の何を持ってしても代えがたい」ということだからである。人間は、何か別の目的を達成するための「機能」を担う存在ではなく、それ自体が目的なのである。

であるから、そのようなAIが開発されたとしても、まあ一緒に暮らしましょう、ということになるであろうし、そもそもそれ以前に、そのようなAIを開発する動機は全く生まれないであろう。

では、今からその時代に戻ればいいのか。自給自足だった時代はユートピアだったのか、というと、これもまた違う。

自給自足だった時代には、自給自足ができない人間がばたばた死んでいたのである。もちろん、家族や小集団単位の助け合いはあったであろうが、それだけでは全く防げないほど、多くの命が失われていたのだと思う。さらには、小集団同士が限られた資源を巡って争い、敗れたほうが淘汰される、ということも繰り返されてきたであろう。それに対して社会における機能分化は、自給自足できない人間が特定の役割だけ果たせば生きていける社会をもたらしたとも言えよう。

従ってこの文章は、原始時代に戻れとか、自給自足のすすめとか、そういったものでは全く無い。全く無いのだが、それでもなお、この先に何がしかの意味があるものが見つかるのではないかという期待のもとに、この文章を書いている。

なにかの宗教でも持ち出さなければ、「人はみな存在しているだけで祝福されている」ということを本気で信じることはできないのかもしれない。

しかし、分化した機能をひたすら代替し続けるテクノロジーと、それを推し進めようとする強いモチベーションに囲まれた環境下で生きていく上で、「原理的に」この問題は避けては通れないのではないかと予感している。

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