オートメーションの上でダンスを
人々の努力はできるだけ報われて欲しいと思う一方、報われるかどうかはその時々の社会制度、市場動向、立ち位置、コミュニティの価値観等に依存せざるを得ない。残念ながら全く的外れの努力、というものもあって、2つのバケツの間で水を移し替える作業をいくら繰り返してもそれに報いよとはならない。
究極的には、努力が報われるためには「努力そのものが報いであるような種類の努力をする」しかない。つまり自己充足的であれ、ということである。しかしその場合、果たして社会は成り立つのか。外部から報われるような種類の努力をしてこそ互いが支え合い、社会が成立するのではないか。
自己充足的努力と社会の持続可能性を両立させるための唯一の方法は、「オートメーション」である。オートメーションを社会の隅々にまで徹底的に推し進めることで他者に対する負担が免除され、我々が自己充足的努力を、そしてそれのみを選び取ることが可能になるのである。
それでは人と人との温かいつながりがなくなってしまうではないか、と不安になるかもしれない。逆である。自己の生活維持はすでにオートメーションによって実現されているので、見返りを求めること無く、つまり自己充足的に他者を幸せにするための努力、に身を投じることができるのである。
オートメーションという「冷たい」テクノロジーこそが、「温かい」繋がりを実現する。
ところで、冒頭で「努力の報い」について論じたが、そもそも「報い」とは何か。これは端的には「金銭的報酬」「貨幣」である。貨幣とはすなわち、「他者に自身のために努力してもらう権利」である。
そしてこの他者の努力は決して自己充足的なものではなく、貨幣によって呼び出される目的合理的、道具的努力である。貨幣とは、ひいては「報い」とは、他者にコンサマトリーではなくインストゥルメンタルな行為を強いる、「機能的である」ことを強制する、極めて非倫理的なものであるとすら言える。
一般に、「手段の目的化」という状態は忌避すべきものとして批判される。しかしこれは暗黙裡に強い機能主義を前提とした批判であり、手段に耽溺すること自体には何の問題もない。機能としての努力、その報いとしての貨幣、それが呼び出す他者の機能が構成する網目に束縛されることこそ問題なのである。
ダンス、は自己充足的行動の典型例である。原則としてダンスは、他者に機能を提供するためではなく、自身の喜びのために踊られる。鑑賞者に喜びを与えることもあるがそれは派生的な効果に過ぎない。
しかしダンスは、必ずしも自己に閉じた行動ではない。誰かと、あるいは集団で踊る場合もある。
他者とのシンクロ、それに伴う熱狂と陶酔。しかしこれら相互充足的、集団充足的状態は必ずしも「狙って」実現できるものではない。これらはいわば偶然の産物であり、僥倖として捉えなければならない。あくまでダンス自体は何の機能も提供しないのである。
従って社会はダンスだけでは成立しない。他方、必要な機能を個人に強いれば強いるほど我々は踊ることができなくなる。オートメーションが必要とされるゆえんである。ダンスはオートメーションの舞台の上でこそ可能となる。オートメーションこそ倫理的なのである。
当然ながら、そのようにしてかろうじて成立するダンスなど果たして<本当の>ダンスと言えるのか、との疑問が湧く。また、我々はそこまでオートメーションを信頼しうるのか、という疑念も浮かぶ。これらは正当な問いである。
そしてまさに、このような正当な問いをあぶり出すことこそが「オートメーション」の価値であり、倫理性の根幹なのである。
オートメーションの上でダンスを。