「腹の底の信念とは切り離してプロトコル合わせができる相手である」という「信頼」
我々が、多様性と普遍性を併せ持つ「競技場」(それは時にはマーケットであり、時には外交交渉の場だったりします)でプレーするには、ローカルルールではなく、その時支配的なゲームのルール(=グローバルルール)に従わざるを得ません。それはもう、ナショナリズムとかパトリオティズムとかそういったものを超えて、普遍的真理でさえもなく、「デファクトスタンダードに基づいたプロトコル合わせ」だと冷徹に割り切るしかないと思います。
この「デファクトスタンダードに基づいたプロトコル合わせ」は、プレイヤー全員が同じ振る舞いをするということを必ずしも意味せず、それぞれのプレイヤーが、デファクトスタンダード全体の中で与えられた特定の役割を果たす(与えられた席に合わせて姿勢を作る)ということも(それが誤解に基づいたステロタイプや権力勾配によって押しつけられた偏った役割であろうとも、残念ながら)含みます。
しかし、(それが「冷徹な割り切り」であるからこそ)ローカルルールの基盤になっている価値観、伝統、信念を完全に捨て去る必要はさらさらなく、それは(我々がその価値観、伝統、信念を合意の元に認めるのであれば)「腹の底に」粘り強く持ち続けるべきでしょう。その一方で「支配的なゲームのルール(=グローバルルール)」にただ受動的に従うのでは無く、隙あらばそのルール自体を変えるべく(広い意味での)「交渉」を続けていく必要があるのだと思います(他のプレイヤーも同じことをしているはずです)。
(ここに、一見「ルール=制度」のほうが堅く、安定性があり、拘束力があるように見えるにも関わらず、実は長期的に見れば共同体の「価値観、伝統、信念」の方が安定的である場合もあり、両者は影響を与え合っている、という交錯が見られます。一方、「プレー」と「ルール=制度」の間にも、そのような異なる安定性と流動性を持ったレイヤー間の相互作用を見て取ることができます。)
我々が腹の底では別の信念を持っていることはもちろん他のプレイヤーも知っているでしょう。そして同時に、他のプレイヤーもまた当然腹の底では別の信念を持っていることを、我々は理解しておくべきでしょう。その上で我々はお互い、「こちらが腹の底では別の信念を持っているということを相手は見抜いている」ということも自覚しておくべきでしょう。
このような入れ子構造の相互理解は、逆説的に、「腹の底の信念とは切り離してプロトコル合わせができる相手である」というプレーヤー同士の「信頼」に結びつくのだと思います。もちろん、その「腹の底の信念」をいつ「表に出してくる」か、という緊張感に満ちた絶えざる検証が必要なことは言うまでもありません。
そういった行為の総体が、多様性と普遍性を併せ持つ「競技場」で繰り広げられるプレイヤー同士の「コミュニケーション」なのだということを改めて感じています。