「教育・脱教育・反教育」(2023年10月)
●10月2日/2nd Oct
土曜の「ヒトの学校」では、主にルールについての話題が中心だった。校則について疑問や不満、校則をなくせばどうなるのかの思考実験、ルールがあるからこそそれを言い訳に誰かと円満に出来るという意見など、「ルール」と「逸脱」について色々と意見が飛び交う。
その中で印象的だった一つは、「髪を染めること」との是非。髪を染めてもいい校則がある学校なのに、染め方が"あるライン"を超えるとダメになる。そのラインが微妙で、先生の都合によって決まっているのでは無いかと不信に思っているようだった。
ルールは時代や場所や状況によって変化するものではある。だから、戦時中の丸刈とおかっぱが強制された時代からすると、随分と自由にはなっているが、ポイントはそこではないのだろう。つまりそのルールを誰が決めて、どのような理由で決まっているのかという、ルールの決定主体と根拠を問題にしてそうだ。
では「なぜ髪を染めてはいけないのか」そして「なぜ染めたくなるのか」についても問いかけてみたが、そこは今回はあまり話題は拡がらなかった。アイデンティティ問題に微妙な年齢なので、時間をかけて向き合う必要がありそうだ。僕のポッドキャストでは「個性化の罠」について話している回があるので促してみた。
確かにルールが変化するものではあるが、では変わらないルールはあるのか。それを問いかけた時に「ヒトを殺してはいけないこと」と帰ってきたのがもう一つ印象的だったこと。優等生的な回答としては充分だが、この場は当たり前を疑うところ。だからいくつか問いを出してみる。「ではなぜヒトは戦争をするのか」「なぜ日本では法律で死刑が決まっているのか」「ヒト以外であれば殺していいのか」。
もちろん答えはないし、簡単に出るものではない。事実と規範と価値判断は全て異なる。現状がそうなっているからと言って、それを自明な前提にすることは危険だ。ただ、世間的には言われていることの一歩外側から何かを考えることで、より深い理解へと辿り着くことがある。答えを出さずに終わる場なので、きっとひと月後に色々と話してくれるのではないか。
●10月3日/3rd Oct
本日は「DESIGN CHRONICLE」の講義。今回は「COSMOLOGY」と称して古代と宇宙論を語る。環境デザインに通常は宇宙という領域は入ってこない。ただ総合知を掲げるこの学域では出来るだけ射程範囲を広げるために、宇宙から原子までの範囲を見据えて話す。
フラーの宇宙論とイームズのパワーズオブテンを手がかりに、体内から銀河までフラクタルに展開する宇宙のデザインについて話す。宇宙船地球号のデザイン、ラブロックのガイア理論などを話しながら地質学、海洋環境学、大気環境学あたりの話をカバーする。
ラブロックの話から、体内の微生物のネットワークの話と土中環境を並列で話して、いかに微生物のデザインが重要かを語る。その後、神話学を紐解きながら、世界の8地域の古代の宇宙論を紹介。古代エジプト、メソポタミア、古代ユダヤ、古代中国、古代インド、古代ギリシアなどの宇宙論の共通性と多様性を整理分類して話す。
その後で、ハナムラがこの十数年続けてきた聖地のデザインのフィールドワークを天文考古学の知見も借りて紹介。インドのジャンタルマンタル、イギリスのストーンヘンジの現地撮影映像などを見せながら、小さな場所が大きな天体の運行からデザインされている話をする。
加えてギザのピラミッドの構造とそれにまつわるいくつかの学説を紹介して、定説の罠と聖地の本質について確認する。我々の問題認識はあくまで現代という限られた範囲の中にしかない。そのスケールを広く見積もってほしかったので、1回目は少々強めに差し込んだ。学生たちは結構目を丸くしていたが、誰も寝ていなかったのは幸いだった。
●10月5日/5th Oct
長老との対談原稿はひとまず整理して、ようやく17万時強。あと1-2万字削らないといけないが、またどこかのエピソードをばっさり落とすかどうか。悩ましい。
●10月5日/5th Oct
呪詛のスケールが大きくなってしまった今の社会では、それが解けた時の影響も大きい。呪詛とは相手がそれにかかっている間は操作出来るが、破られた瞬間から呪詛返しに合う。そうなると、今度は自分の立場が危うくなる。
だからかけた本人は自分がかけたことを気取られぬように何重にも間に代理人を立てる。そうしないと自分に直接返ってくるからだ。我々は呪詛など前近代的な迷信と思っているが、現代のメディアに置き換えると呪詛の本質が理解しやすい。かつての呪詛が次々と解け始めている。
●10月7日/7th Oct
ここのところ講義の準備に忙殺されている。手を入れ出すと、あれも伝えたい、これも伝えなきゃとついついスライドが増えていく。しかし多すぎると伝わらないので、流れをシンプルにメッセージを明確に削っていく作業が必要になる。
僕のスライドはアニメーションが多いし、セリフとセットだからそのまま渡しても意味がない。だから一回の講義でちゃんと伝えたいことが伝わるように、膨大な時間をかけてスライドを作る。
この労力が学生に伝わるかは分からない。講演でも資料が欲しいと気軽に言われることもあって困ることもある。基本的に何でも一期一会だ。だからその時にちゃんと聞いていない人に資料を渡しても意味がない。
●10月8日/8th Oct
この数日間、講義の準備に追われて目を離している間に、中東が激しくなってきているようだ。報道によるとハマスだけじゃなくヒズボラも加わったようだが、このタイミングでイスラエルが荒れると色んな所に影響しそうだ。既にウクライナとの関連も噂され始めているようだが。
先週とある所でモロッコの事情を聞いたばかりなので、それも併せて気になっている。モロッコはトランプ政権時に西サハラの問題とバーターでイスラエルとの国交を正常化させた。確か共同の軍事演習をしていたし、今回の一件を見越して退任直前に差し込んだトランプの読み通りなのか。
米下院議長の一件やサウジとの国交正常化の動きも含めて、年内に色々と動きそうな気配はある。ただ日本のメディアの状況だけだとまだ対岸の火事だ。正常化バイアスはそう簡単には外れなさそうだし、ウクライナの時と同じ状況になる可能性もある。先般モロッコで地震が起きたばかりで、その一件も関連するシナリオだとすると、水面下で色んな事が起こっている気配がある。
●10月9日/9th Oct
自分が世界をどのように見るのかで、世界というのはあり方が変わる。素晴らしい楽園だと捉えるのも、恐ろしい監獄だと捉えるのも、自分の見方次第だ。しかしそこでは自分の心持ちが大事で、誰かの見方は本当は重要ではない。
難しいのは、自分の見方だと思っているものが、人にそう見せられている部分があること。監獄なのに楽園だと信じ込まされていたり、逆に楽園なのに監獄だと思い込まされることもある。自分の見方は人の見方に影響される。そこから解放されると自由になれるのだろう。
●10月10日/10th Oct
本日のデザインクロニクルは「ORIGINE」。人類の起源、精神の起源、美の起源、デザインの起源など。45億年を24時間にした地球時計を使って、地球誕生から現在までの歩みを辿るところからスタート。地質年代でいうと、四つの累代の最後の顕生代が今から2時間40分前に始まり、ようやく目に見える生物が出てくる。人間はわずか2秒前に生まれたくらいの時間感なのに人新世と呼ばれる地質年代が現れつつあることを確認。
人類の起源として700万年前の初期猿人から、アウストラロピテクス、ホモハビリスなどを経てホモ・サピエンスに至るまでの人類史の流れ。人間はチンパンジーの幼形成熟というボルクのネオテニー説。脳化指数や進化の骨学など顔のデザインからも人間の起源を考察する。
200万年前のオルドワン型石器にデザインの起源を求めながら、人類が進化の過程でいかにモノを発達させて来たのかを紐解く。ただ、地球研のシンポでもご一緒したティム・インゴルドの考察も紹介しつつ、頭ではなく手が先行して形が導かれた可能性についても少し触れておく。
20万年前のアフリカを起源とする定説だけでなく多地域進化説の可能性にも触れる中で、フラーのダイマクシオンマップを使って、東南アジア沿岸部への人口集中をチェック。いずれにせよ人類の歴史の99%は移動の歴史だったことと、今の文化は全て定住を前提にしていること確認する。
次は美と精神の起源について、エデンの園と認知革命からスタート。様々な洞窟壁画や僕がアルタミラに洞窟へ訪れた画像などを見せながら、芸術と宗教とが未分化だった時代のことを確認。インドネシアの40000年前の洞窟壁画などからジャン・クロットの先史時代のシャーマニズムへ話を移す。
エリアーデのシャーマニズム、レビ=ストロースの構造主義やブリコラージユなどを頼りに、人類の歴史の大部分は今の我々のような問題解決ではない方法が占めていたことを伝える。自然と人間との関係の結び方について、ネイティブアメリカンの植物学者キマラーの本も紹介。持続可能とは自然から何かを収奪し続けることを指すのかという問題提起を投げかけた。
再度氷河期に話題を戻し、海進以降の移動文明について紹介する。太平洋に広がるオーストロネシア語圏と出台湾モデルの紹介、その流れが日本のルーツになっていること、ポリネシアの双胴船のデザインと海上での天文学の発展、船が建築化した痕跡などを辿る。
四大河文明よりももっと前から人は船をデザインし、海で知識を培った海洋の文明とその痕跡としての南シナ海のバジャウ族の紹介をする。海の文明がどのように陸に上がったのか、そして農業と定住が生んだ都市デザインの起源を三パターン紹介。
現代都市のカットで講義を終了したが、長尺で歴史を見ることの意味を理解してもらう。当学類では持続可能というフレーズだけが固定化している。だが本当は、何がどこまで持続するのか、誰にとっての何の持続なのかなど、論点が様々だ。巷で唱えられる地球に優しいビジネスや光輝くイノベーションという安易な言葉に心踊らされずに、物事を深く考えて欲しいことを伝える。
●10月11日/11th Oct
和歌山大学の波切サロンで、来週講演します。今回は革命の話はなしで、「まなざしのデザイン」の話とワークショップをします。参加無料ですので、これまでお聞きになったことの無い方はぜひ。ワークショップは見てるだけになるかもしれませんが、オンラインでも参加できますので、遠方の方もぜひ。
●10月12日/12th Oct
講義で使いたかったので、これまで行ったイスラム圏の聖地のフィールドワークの映像を確認。バングラデシュとイランとインドとモロッコ、スペインなど色々行ったが、イスラムとしての共通性よりも、装飾や細部のデザインの多様性が気になる。
ヘレニズム時代の後に台頭してきた文化なので、聖なる幾何学を踏まえてはいるが、カリグラフィとアラベスクが混じって、そもそもの宇宙の表現という狙いが場所、時代によっては若干見えなくなっているようにも思う。
●10月13日/13th Oct
本当に戦うべき相手は、大きすぎて見えないか小さすぎて見えない。だから我々は見える範囲の相手と戦おうとする。この「戦う」という言葉が殺伐としているなら「問題」に置き換えてもフォーマットは変わらない。我々は中途半端な日常スケールに焦点を合わせられて奮闘している。
自分に分かること、出来ることの範囲で生きていくことは大切だが、分かること、出来ることの範囲を広げていくことも大切だ。だから見るスケールを大きく引いて俯瞰したり、うんと寄って精細に見たりすることが必要になる。地図と顕微鏡の両方を往復すると真に戦うべき相手が見え始める。
●10月16日/16th Oct
18日の水曜日の晩に岸和田で「まなざしのデザイン」の講演します。和歌山大学の「わだい浪切サロン」という公開講座で、参加無料です。オンライン参加も無料で、今回はシステムが結構充実しているので動画もストレスなくご覧頂けると思います。
今回は60分の講演とワークショップなので、革命の話ではなくデザインの話を中心にします。既に結構な人数申し込んで頂いていますが、まだハナムラの話を一度も聞いたことない方は是非。聞いたことある方は、いつものあの話です。
●10月16日/16th Oct
明日の講義では古代オリエント地域、つまり中東のことを話すが、本当は今のイスラエルの現状とこれから何が懸念されるかを交えたい。現代の問題は実は古代から続いているので、そこまで繋げて話したいが、90分の講義ではその話が出来ないだろう。
それ以前に今の学生は、おそらく宗教や民族についての基礎知識もないので、普通のニュースを見ても何にも事情を理解できないと思われる。ましてやニュースが操作されているとかいう話になると、ますますさっぱり分からない。
ただ本当はウクライナとイスラエルと日本の共通点から今の状況を読み解いて、対岸の火事ではないかもしれないことを伝えねばならないのだが、その前に前提とすべきことが膨大にあるので、そこまで辿り着かない。
明後日の講演でも「見方」の話とかするが、せいぜい"視野を広げよう"くらいの差し障りのない話にならざるを得ないだろう。とても歯痒いが、もはや革命の話に耳を傾ける人は少ないので仕方あるまい。結局何か起こってからでないと我々はリアルには感じられない。
●10月17日/17th Oct
本日の環境デザイン通史は、「ORIENTATION」というタイトル。"方向づける"という意味だが、元々は教会堂を東に向けることに起因していて、中東地域のことをオリエントというのも、ヨーロッパから見て東方にあることに由来していることから話し始める。
世界史における歴史区分の話、前回のオーストロネシアの位置をダイマクシオンマップで示し、オリエント地域に位置する四大文明の二つと、そこから中心を西へと移していく地理的な位置を確認する。その上で、なぜヨーロッパの文明が現代文明の下敷きになったのかを最初の問題提起として投げる。
次に和辻哲郎の「風土」の話を紹介し、世界には三つの風土があり、三つの民がいるという見方の話をする。砂漠、草原、森林の民がそれぞれどういう精神性と文化、宗教観の違いを生んだのかを見ていく。
そしてそれが環境デザイン、特に庭のデザインと都市のデザインにどう反映されているのかを僕がこれまで訪れた場所の写真を見せながら確認していく。懐かしいイランのエスファハンの写真や、一時期住んでいたグラナダの写真などを見せながら、イスラム圏のパティオのデザインなどを紹介。現代都市という風土はどういう精神性を生み出すのかについても触れる。
その次に、オリエント地域について見ていく。農業は環境破壊の起源であるという説を紹介し、モントゴメリーの「土の文明史」の中から鋤の発明と土壌侵食について見る。ナイル川とユーフラテス川の灌漑農業の違いを説明し、なぜメソポタミアで"帝国"なるものが誕生したのかについて見ていく。
アッシリア、アケメネス朝ペルシアを経て、アレクサンドロス帝国では、どのようなブランディングがなされたのかを確認する。以後、異民族を束ねる帝国というフォーマットは繰り返し世界に現れる。その走りだったアレクサンドロス帝国で、草原の民と砂漠の民が出会いヘレニズム文化が生まれたことを確認。
以後これがヘブライズムとともに西欧のルーツになっていくことも見る。古代ギリシアの幾何学について次回に積み残してしまう。イスラエルが今大変なことになっていることについては冒頭で少しだけ触れたが、そのルーツになるオリエント地域について奇しくもこのタイミングで話すことになったのは何かの縁か。
●10月18日/18th Oct
フラーは早い段階から、ニューディール政策が企業に戦争の準備をさせるためにアメリカを社会主義化したことを、的確に指摘していたのだな。彼は「法律家資本主義」と呼んでいるが、経済活性化の本質とは戦争の準備になっているという補助線は何とも言えない気持ちになるな。
●10月18日/18th Oct
今日の夕方の和歌山大学での講演はオンライン参加者がすごく多いみたい。革命の話じゃなく、まなざしのデザインの話と、自分のまなざしの分析のワークショップという内容だからかと思っていたが、多分「無料」というのが効いているのかと。
●10月18日/18th Oct
和歌山大学の岸和田サテライトでの「わだい浪切サロン」での講演終了。ここのところは革命の話が中心だったが、今日は基本に戻って、「まなざしのデザイン」の話。モエレの花火のプロデュースの話も久しぶりに話したし、宗教の代替として自分の内面を見つめるための芸術の話もした。
会場は60代から80代が中心だったので、今日は意識してかなりゆっくり目に話したが、オンラインでどう響いていたのだろうな。後半はまなざしの分析のワークショップで、エゴギョウの読み解きを。案の定、講演よりもこっちの方が盛り上がった。
合わせて80名以上参加していたが、オンラインで誰が参加していたのかは全くこっちでは分からないし、スライドがどう映っていたのかも把握できていない。もしどなたかお聴きになられた方が居られれば、是非ご感想など頂ければ幸いです。ご参加頂いた皆さま、支えて頂いたスタッフの皆さまに心より感謝。
●10月19日/19th Oct
昨日の講演は、会場でお聞きの方々がご高齢の方が多かったので、刺激強めの革命の話は控えて視点を拡げて心持ちを良くする話にフォーカスした。ただ、やはりここ数日の世界情勢の方が気になっているので、そちらの話が出来なかったのは少々フラストレーションではある。
とはいえ、確からしいことがまだはっきり分からない中で、自分自身も色んな補助線だけは点線で描いている状態だ。この時点で何かを話しても惑わすだけになるだろう。そうであれば口をつぐんで置く方が良いのかもしれない。
ただ、真相は報じられているようなことでは全くないだろうし、SNSで色んな人が雄弁に論じていることでもないのだろう。もっと大きなフレームで考えないと事の真相は見えてこないように思える。見ている映画の悪役に怒りの拳をあげても意味がない。それは単なる役者たちだ。
ではそれをさせている監督や脚本家に拳を振り上げるのか。それともその監督を連れてきたプロデューサーに矛先を向けるべきか。それとも出資したパトロンを憎むべきか、その構図を作った観客が悪いのか。そんなふうに犯人探しをしていると果てはなくなる。
我々が日常レベルで感じる善悪の基準など、問題設定が変われば何の意味もなくなることもある。だからと言って知る努力や考える努力を放棄して、享楽的に生きるか、あるいは立場を固めて運動するのだろうか。人にはそれぞれの能力や関心の範囲があるので視野が狭くなるのは当然だ。だがそこを拡げる努力すら怠るのなら自由を失っても仕方あるまい。
●10月20日/20th Oct
フェニキア人について調べているが、さすがにローマ帝国が滅ぼしたとあって資料があんまり残っていない。ヨーロッパの文明のかなりの部分は海洋文明の彼らが築いたはずだが、砂漠の民のヘブライズムの方が色濃く染み付いている。
ハートランドの地政学的に見ても、中東のオリエント地域は重要な地理的位置にある。古来からのユーラシアとアフリカを繋ぐ位置のみならず、スエズ運河の開通で、地中海とインド洋を繋ぐ位置にもなった。シーパワーが最も機能する所だが、イスラエルがここに位置するのは世界の兵站線と軍事バランス的に色んな含みがあるのだろう。
この地域を制する者が世界を制するというのは近代以降の地政学的な理屈だが、ヘブライズム的な観点からは全くオカルティックな力学で動いているのかもしれない。シオニズムの裏側は我々が考えているほど単純ではない可能性がある。それは陰陽道を未だに裏で機能させようとする輩がいる日本でも同じことか。
●10月21日/21st Oct
本日は「ヒトの学校」の二回目。大阪公大の社会連携科の講座の枠組みで、ハナムラが10歳から19歳までのヒトと一緒に色々と考える学校。この第一クールのテーマは「オトナは正しいのか?」。前回に引き続き高校生たちと、今日は新たに二名の中学生が加わった。
今日面白かったのは、中学生と高校生では社会の範囲とリアリティが違うので、対象とするオトナが変わる。前回は高校生が中心だったので、仮想敵が「先生」だったが、中学生は「親」になるようだ。わずか一年くらいの違いで自分を拘束するオトナの範囲が少し違ってくる。
食事を出す時間を巡って、親との言い争いになる話題から、ケンカをすることは悪いことなのかという問い、自分のプログラムと他者のプログラムをどう擦り合わせるのかという話題へと展開する。高校生くらいになると、そういう問題は既に克服しているのでそこに問題意識はないようだ。
自分が期待することと、相手がすることの間に隔たりがある場合にどうそれを処理するか。感情的には処理できないところを、頭の理解によって納得させるというテクニック、必要以上に関わらず、共有できる所だけで関わるというテクニック、妥協できるポイントを互いで交渉したり探り合うというテクニック。高校生くらいになると、「期待値」と「予想値」が違うことを理解するので、色々と工夫があるようだ。
ただ、争いを避けてやり過ごすテクニックだけ覚えていくことに違和感を感じたので、場が暖まってきた頃に、色々と問いを投げてみる。二人の関係の場合は自分と関わりたい相手とだけ関わっていればいいかもしれない。でもそれが複数や共同体、社会というスケールになるとそうはいかなくなる。
その中でテクニックだけ長けるようになるということは、どこかで何かを誤魔化すことになるのではないかと。皆色々と考えだした様子だが、お互いがハッピーであればそれでもいいんじゃないかという意見が出てきたので、さらに問うてみた。例えば、詐欺師が上手に騙してくれるならそれもアリなのかと。
こうなるとさすがに中高生関係なく、皆考え始める。ホストにハマるヒトの例や、宗教の例、怪しいビジネスの例など、口々に出てくる。核心に迫りそうなもう一歩の所で時間切れになったので、次までに少し考えておいてと宿題にした。終わってから中学生のヒトの一人は、お父さんと一緒に次のクールを申し込んでいた。
ソクラテスが素晴らしかったのは、自分で答えを出すのではなく、相手に問い続けながら相手が答えを導く産婆術に長けていたことだという。問いの持つ力は答えを出す力よりも時に優れていることがある。おそらくこういう講座を半年でも続けると、自力で問いを立てられるようになるだろう。
●10月24日/24th Oct
本日の環境デザイン通史のテーマは「SACRED」。聖なるデザインについて話をする。前回はヘレニズムとヘブライズムが西洋文明の起源になっているという話で終わった。その続きで、ヘレニズム時代に古代ギリシア培われた聖なる幾何学の話からスタート。
ピタゴラスの定理とテトラクテュスの話、黄金比とフィボナッチ螺旋の話、それがアレキサンドリアの図書館からバグダッドとトレド経由でルネサンスにどうつながったかを追いかける。そこからケプラーとゲーテを経由してバックミンスター・フラーまで繋げた。
二つ目は聖地巡礼とデザインについて。カール大帝の戴冠式の話から、教皇と皇帝の関係を確認。なぜヘブライズムがヨーロッパに伝わったのかをキリスト教とローマ帝国の関係から神聖ローマ帝国まで追いかける。最初は平等を説いていた宗教がいかに権力に取り込まれていったのかを見ていく。
レコンキスタの一環としてサンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼路の整備がされたが、かなり政治的意図が強いことにも触れる。ロマネスク様式の建築デザインを解説して、それがバロック様式へどう展開したのか。巡礼案内と聖遺物がいかにデザインされ、巡礼がいかにプロデュースされたのかを確認する。
サンティアゴ大聖堂のボタフメイロの儀式を現地で撮影してきた映像やタージマハルなんかの映像も見せる。ついでにイスラム教のハッジと四国のお遍路も見ながら、宗教システムにとって巡礼という行為がいかに機能するのかを確認する。僕がかつて訪れたエスファハンのイマームのモスクの写真も久しぶりに引っ張り出してきた。
最後に聖化する風景の話として、いかに近代に風景という概念が成立したのかを、主格二元論から追いかける。西洋絵画の変遷から自然に対して人々がいかなる眼差しを向けてきたのか見て、それが風景画の出現によってどう変わったかをクロード・ロランの絵画やセザンヌから読み解く。
絵図やインスタなどの風景メディアによって切り取られて客体化することで、これまで感じられなかった価値が生まれる。それを1940年代からの工場風景の変遷から追いかけ、人々の見方がどう変わったかを見る。そして実はその風景メディアの構図が現代のアニメの聖地巡礼まで繋がることを、アニメらき☆すたのオープニング、アニメの「君の名は」「涼宮ハルヒの憂鬱」を見ながら確認する。
最後に「五等分の花嫁」とBTSをキリスト教の聖人と並べながら、現代ではアニメやアイドルが中世の聖人のような偶像になっていることを指摘しておいた。現代の偶像がいかなる権力と結びついているのかは問いのまま投げかけながら、エンディングにYOASOBIの「アイドル」を流した。なかなか盛り沢山だがどう響いたのだろうか。
●10月25日/25th Oct
スマホでフェイスブックが立ち上がらなくなった。投稿を控えよというお告げか。