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能勢伊勢雄さんとのロングトーク

岡山県高梨市の成羽美術館で3月21日まで開催中の金考妍さんの展覧会「息する瞳」の、トークイベントで登壇する。敬愛する岡山の能勢伊勢雄さんとのロングトークで、朝の10時から夕方16時までという凄い時間枠。

いつもは能勢さんのお話を客席で聴く側だったが、同じ側に座るのは初めて。乗り切れるのか心配だったが、今回は能勢さんが丁寧にスライドをご準備してくれたので、その思考の流れの中で、二人でじっくりと金さんの作品を掘り下げる時間を持った。

午前中はコンセプチュアルアートとは何かについて、日本を代表するアーティストの松澤宥の作品から読み解く時間。「オブジェを消せ」という言葉でコンセプトそのものを作品にした松澤宥からは、僕自身の作品も非常に刺激を受けたが、金さんの作品もその系譜から能勢さんによって読み解かれる。

まず能勢さんがご準備してくれた、YouTubeの金考妍チャンネルの映像をもとに、彼女のこれまでの作品の紹介がされる。読み上げられた言葉を目隠しして利き腕でない手で描く作品、一枚の同じ手紙を海外の友人と繰り返しやりとりしたものを再構成した作品、全力で走った後で平然とした顔をして撮影する作品、自分の化粧した顔に紙を当てて塗りつけて作る作品、絵具そのものを描く作品、美術館にベッドを置いて来場者に寝てもらう作品。

こうした彼女の作品の中にコンセプチュアルアートの文脈を読み取る。能勢さんが指摘されていたフランスのソフィ・カルとの類似点については、僕自身も思うところがあり、「盲目の人々」というソフィ・カルの作品を会場の皆さんに簡単に解説した。

僕自身は誰かの作品を分析するときには、その人の中にある一貫した無意識を辿ろうとする。金さんの作品では、いずれも何かの「痕跡」を残すことが意識されていること、それは撫でたり擦ったり触れたりする「接触」が用いられることが特徴的だと読み取る。

能勢さんは「膜」の観点から金さんの作品を読み解かれていたが、その接触面である膜の在り方に、内部からの力と、外部からの力の両方が均衡したり拮抗する痕跡が残るのだろう。「生命の逆鋳型」としての膜の問題は生命の定義の問題や膜宇宙理論までの拡がりがあるので、ここでは議論として汲み尽くせないが、能勢さんに論点として提示して頂いただけで十分だ。

「白鳥のうた」に代表される松澤宥のコンセプチュアルアートでは、オブジェとしての作品が鑑賞者と制作者のコミュニケーションを逆に阻害しているという観点に立つ。だからそこで提示されるのは、コンセプトのフレームだけであり、そのフレームに沿って表現されたものは誰が表現したとしても、それは彼の作品ということになる。

卑近だがハナムラの「ガリバースコープ」や「見立百景」「レインボーウォーク」や「データスケープ」という一連のワークショップ作品もコンセプトのフレームだけがあり、そのフレームに沿って参加者が表現するというものだ。その角度からはこれまで話したことはなかったが、実はハイレッドセンターなど芸術やそのコンセプチュアルアートの文脈で自作を語ることもできて、近年の作品である「地球の告白」「半透明の福島」では、同じ狙いで来場者に手紙を書いてもらうという位置付けになっている。これまではあまり美術業界で語ることがなかったので、「まなざし」の文脈で作品の狙いしか話さなかったが、いつか作品の中身について話してみたい。

松澤宥の「量子芸術宣言」の話題、2004年の「消滅と未来と」「ヒロシマから59年」などに話題が移り、松澤宥本人が封印した「ψの部屋」を能勢さんが撮影した話へと展開する。能勢さんはずっと松澤さんとの交流があり、「スペクタクル能勢伊勢雄展」では、松澤宥が設定した9文字×9文字の81字をコンセプトにしたメッセージがフェルトペンで寄せた話をされた。
その後、松澤宥の晩年の「テレパシーアート」の制作の話、それを京都国際映画祭でテレパシーで制作した音楽と合わせた映像作品へと昇華した話へと話が展開する。

僕とのディスカッションの中では、フロイトの思考の転移とユングの集合的無意識と絡めながら、人間が他者の思考をどのように読み取り、送り届けるのかという問題について深めあう。精神分析のために思考の転移を晩年の研究していてフロイトと、精神力動として人間の思考を捉えていたユングとの違い、そしてその中間としても位置付けられるヴィルヘルム・ライヒの話にも論点としてハナムラから提示した。

そんな話を展開していると午前中の2時間はあっという間に終わり、お昼休みを挟んで午後へ。吉備テレビが取材に来ていたので、インタビューにも答える、
お昼休みは控え室で、キュレーターの吉尾さん、金さん、映像の佐藤さんたちと、なぜか芝居の話になる。演劇や演技についてのハナムラの感覚を少し共有していると、能勢さんからピーター・ブルックの舞台についての話が提示される。やはりリラックスして話せる控室の方が話が弾むことが多い。

午後は「天空の蛇」を皮切りにエジプト数学の話、そして連分数で表現される黄金比、射影幾何学から神聖幾何学の話へと展開していく。パッポスの定理や図形や数式が出てきて、会場が少し緊張し始めたので、適宜様子見ながら能勢さんのお話に補足を入れていくが、ここの理解が進むと一気に作品の読み解きご面白くなるので、何とか共有しようと努める。

ゲーテ形態学の中で少しだけ語られていたテオンの逆理と成長螺旋の話や、交差レムニスカート原理の話などから、控え目にエーテルの話に少しだけ触れる。射影幾何では、三次元のものが二次元に投影される際に、シナジェティクスが起こるという特徴がある。今回の金さんの作品でも、いくつか射影されたものがあり、それについて論じ合う。

その後、話はかつての日本女性が嗜みとして身につけていた「包結之栞」から"折る"行為について話は展開する。金さんの今回の作品では、折られた物や屏風などがあるが、死者と生者の領域を区切る境界の話や、それを行き来する再生の話へと話題は移る。

作品の中に、三次元の立体を和紙に写し取って生まれた紋様が展示されたものがあるが、紋様がいかに生まれるのかについての能勢さんの整理が興味深い。
一つめが、「表層からの紋様」であり、道教の経典だある「道蔵」などに描かれる自然の兆図としての紋様である。滝、雲、水面、岩などの表面に現れる紋様は、意味を持った形態であり、形態そのものが読み取られるべきメッセージを内包している。象形文字である漢字にはそれが表現されており、青井貝次郎の漢字一元論の話なども紹介される。

二つめが「運動からの紋様」で、ペンローズ図形を取り上げ、平面の充填状態の問題について解説する。水平、回転、滑り鏡映などの運動が生み出すパターンや、同心円が織りなす準周期的な平面パターン、オリガミクスや縄文土器、イッセイ・ミヤケの132.5などへと話は展開していく。
実際に縄というのは回転運動が封じ込められたものであり、衣服も運動によって二次元が三次元に展開される。金さんの作品の読み解きから、段々と次の作品のヒントや補助線のような方向へと二人で話を進めていく。

三つめは「深層からの紋様」では、寺田寅彦の割れ目の科学について紹介される。特に当時も論争になった平田森三の「キリンのまだら」問題は、僕自身も自分の生命表象学を考える上で興味深い視点だ。トークの中では話さなかったが、チューリング波からの観点でこの問題を捉える研究や、熱力学的な観点からコンストラクタルに波と縞との関係について捉える研究もあり、このあたりは一度理論同士を付き合わせて考察せねばならないだろう。

その後トム・ディアリングの人工生命の話やノーバート・ウィーナーのサイバネティクスなどを経て、翌日に岡山市で話されるUFOとウナリウス教団の話をチラリと触れられた。

最後に金さんの今回の作品を写真でレビューしながら、一つずつの読み解きと、全体を通底する無意識について考察を深めた。
午後は3時間たっぷりと話をしたが、会場でお聴き頂いた方々も長時間で大変だったのではないかと思う。能勢さんのバイタリティは驚異的で、寒い会場の中、登壇していた僕も金さんも途中でお手洗いに行くのを我慢して聞き入ってしまうほどだった。

事前に打ち合わせ出来ていなかったのだが、僕自身がもう少し役割を自覚して、能勢さんのお話を回せていけたらと反省は残るが、6時間に渡るロングトークをご一緒出来たことは至福の時間だった。

お声がけ頂いた能勢さんと金さん、そして会場をご準備頂いたキュレーターの吉尾さんにも心より感謝しかない。
翌日は能勢さんは岡山でさらに6時間のトークをされてスライド枚数は2日で合わせて当初1600枚に及んだという。
いつもながら能勢さんの活動エネルギーと知性、情熱と深い思索にはただただ驚嘆と尊敬しかない。翌日については別論稿で整理したい。

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