「世界は造形される」(2020年6月)
●6月1日/1st June
この週末は、ひたすら模型を作りながらランドスケープと建築のデザインの細部の収めを検討する。
これまではアーキテクトとして建築の計画設計をずっと進めてきたが、一通り内部のプランが落ち着いてきたので、ようやくランドスケープアーキテクトとして地形の検討に入れる。
今回はこれまでの聖地研究の知見を活かしながら、建物内部からランドスケープまで貫くオーダーとして、特別な造形言語を使ってデザインを進めている。
デザインしながらカタチの発見が多く、古代の人々の叡智に改めて驚きと敬意を禁じ得ない。
●6月3日/3rd June
メディアから流れてくる報道が出来事を客観的に捉えたものではないということにリアルに気づいている人は、この数年で増えたはずだ。ただ、それをちゃんと理解しているつもりでも、感情に訴えかけるような報道に我々は流されてしまい真実を見誤る可能性は大いにある。
我々は実際に見聞きしていないものを何らかのメディアを通じてしか知る術がない。だからどの紙面、どの局からも同じような角度と同じような見解で情報発信が繰り返されると、それだけが「事実」として捉えてしまう。
特にその情報が人権保護や弱者に寄り添っているトーンを帯び、暴力や差別、ずるいことは許さないという大義名分が前に出るほど、我々はその裏側により複雑な力学が働いていることを見落としがちだ。
もう10年以上唱えているフレーズだが「小さな問題提起、小さな問題解決は、大きな問題を隠蔽することがある。」前に出てくる何かの強い情報にまなざしを向けるということは、その裏側にある無数の情報が見えなくなることでもある。光に照らされたものを我々は見つめてしまうが、光に照らされていない部分の方が多いのだ。
特に情報化社会ではまなざしの誘導は見えない形で間接的に行われる。何を問題とするのかを控室で誰かが決めているのであれば、同時に何を問題にしてはならないのかをそこで決めていることでもある。表舞台には出てきていることから控室のことを推し量るしかないのだ。
だから報道の「内容」に目を奪われるのではなく、「なぜその報道がされるのか」に注意をしないといけない。そんな目で今の社会で話題になっている情報や報道を眺めてみてはどうだろう。
まなざしのデザインを考える上で、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を思い出したい。
「人間には三種類ある 見る者、見せられれば見る者、見ない者」
●6月7日/7th June
「政治家とは、人々が日々の生活を改善していくうえで発生する諸問題を調整する人間のことである。政治家に社会全体の先導を求めることは、犬のしっぽに犬の散歩を頼むようなものだ。」
R.バックミンスターフラー
フラーの言葉は、誰かに何かを懇願したり陳情したり期待することよりも、自らの頭で考えて、仲間と一緒に智恵を絞って協力し合うことの重要さを言っているのだろうと思う。
法治国家に住む我々は、自分たちの支配や管理を独裁者に委ねるのでもなく、企業に委託するのでもなく、「法律」に委ねることにした。役人とは本来はその法が書かれた書類と、その法的手続きのプロセスを管理している者に過ぎない。
政治家はその法に基づき税金を分配し、事業を進めるだけで、それを管理する立場は本来我々であるはずなのだが、それは忘れ去られているか、いつの頃からか形骸化してしまった。
さらに我々が愚かなのは、全ての元になる法そのものを作る役割も政治家に担わせておきながら、法が成立するプロセスに我々がそもそも携われないシステムを採用していることだ。
法は、"我々がどのように行動してはならないのか"を定めており、我々の自由にとって決定的なことだ。だが、それを我々自身で直接決めることが出来ない仕組みにも関わらず、主権が我々にあるとは一体何を指しているのだろうか。
我々が食べていいものといけないもの。我々が摂らねばならない薬と摂ってはならない薬。我々が行っていい場所と行ってはならない場所。我々が話していいこととならないこと。我々が考えていいこととならないこと。
そんなことが法律によって決まってしまう。だがそれは知らない場で知らない間に話し合われ、時に重要な法案が我々が感知する間も無くあっという間に決まって行くという仕組みになっている。それをそのまま受け入れるのが難しい場合に我々はどういう平和的な選択があり得るのだろうか。
●6月10日/10th June
まなざしのデザインの話は、どうやら広報、広告、マーケティング系の企業からのニーズが多いようで、最近ズームでのインタビュー依頼が何件か相次ぐ。
本日もある広告代理店からインタビューを受けたので、色々と話したが、前提となる考え方を変えねば解決の糸口は見えないことが、ようやく共有され始めてきたか。それでも自分の考えの前提にあるものに気づくのは難しい。
今日も具体的な話から、哲学的な話まで幅広く語ったが、広告・マーケティング業界に共通して言えるのは、誰かのまなざしをデザインせよということが無意識のフォーマットになっていることだ。
インターフェイスとなる情報をどのように演出するのかによって、商品の売り込みから政治的なプロパガンダまで、幅広く我々の意識と無意識が導かれる。広告やマーケティングとはそういう仕事だ。
戦争を請け負うマーケティング会社が描かれた伊藤計劃の小説「虐殺器官」のように、デモや暴動など自然発生的に起こったように見えるものがマーケティングされていないとは必ずしも言い切れない。そのことは意識しておいた方が良いだろう。
●6月11日/11th June
弟の7回目の命日を迎えた。この時期になると遺体を引き取りに行った雨のトロントを思い出す。歳の離れた弟だったので、早く亡くした父親代わりとなって育ててきた。だから突然の訃報に動揺を隠せなかった。
芸術などに携わる放蕩な兄として、弟の最後に何かしてやれることはないかと映像を撮り続けたが、実のところはあまりの悲しみに倒れてしまわぬように作ることにすがるしかなかったのだろう。
それは「弟と最後に過ごした五日間」というドキュメンタリー映像となり、葬儀の2ヶ月後に発表した。だがそれ以来その映像は辛くて見ていない。もうしばらくしたらきっと向き合えるようになるだろう。その時には弟が生きた証を公開する時が来るのかもしれない。
短命の家系なのか、家族の中では、もう自分だけが唯一の男の生き残りになってしまったが、母より先に逝くわけにはいかない。
僕には今世でやり残したことがあるので、それを成し遂げるまではこの肉体を管理せねばならない。ただ用が済めばそれは不必要になる。そうなったとき、自分の亡骸は別の生命が生きる次の糧にしてもらえるだろうか。
全ての生命は生まれては消えていく。長い長い歴史の中ではほんの一瞬のはかない時間だ。その刹那を積み重ねることで、生命の連鎖は一瞬たりとも途切れることなく連綿と繋がっている。
我々は短い時間を生きるからこそ、せめて生きている時間だけでもより多くの生命に慈悲を傾け、共に自由になるために心を進化させる役割がある。決して一人で生きているわけではないのだから。
精神分析理論の始祖ともいえるシグムンド・フロイト。「無意識」を発見した彼のアイデアは、人間のまなざしを考える上で未だに示唆に富んでいる。自分は小さい頃からなぜかその補助線で人を見る癖がついていたので、誰かの言葉や、社会の現象を額面通りに受け取ることは少なかった。
人間の心理は恐れを味わうことを避けるように働く。心に生じる恐れを変形して、抑圧して、規制するという様々な手段で、恐れの流れを変える防衛策を無意識の領域で行なっている。
無意識で行われているため、自分の心が恐れに陥るのを避けるために用いている防衛策に、我々は当然ながら気づきもしない。それどころか自分が何を防衛しているのかも知らない。
フロイトは「人が世間に向ける顔は、その人が無意識に自衛することで作られる」と言い、人が自分自身について語ることには注意深く耳を傾ける必要があることを指摘した。
「オレがそんなことを言うはずはない」と否認すること。
「私ではなくあなたが言ったんです」と投影すること。
「僕は言ったかもしれないが単なる思いつきで、本気ではなかった」と知性化すること。
こういった単純な事実のねじ曲げだけでなく、もっと複雑な態度を取ったり、理屈で固めたり、特定の価値観を理由にする者も少なくない。どういう防衛策をチョイスをするのかは、その人が何を恐れているのかによるし、何から自分を守りたいかによる。
精神分析はそれ自体とても深い考察が必要だったが、フロイトの洞察力はそこでは止まらなかった。1910年前後にフロイトが密かに進めていた「思考の転移」の研究について知る者は多くない。彼は無意識からさらに進めた研究領域へと進んだが、当時はアカデミックで正当に評価できる者が少なかったから、彼は公表を控えた。
僕自身もフロイト以降のこの領域の研究はいつか仏教との関連の中で書きたいというアイデアを持っているが、世間が評価できない段階で、あれこれ言っても誰も話を聞いてはくれない。社会の集合的無意識は見たくないものを避ける防衛策を働かせて、しばらくは正当に評価できないだろう。
まなざしのデザインも15年前ぐらいに話していた頃は、誰も何のこと言っているか分からなかった。5年前ですら、もしくは本を出した3年前ですら、いや、今ですら自ら使えるところだけつまみ食いして聞く人が大半で、本質的な部分に耳を傾けて理解しようとする者は少ないだろう。
メディアや政治や経済に違和感を感じる者が増え始め、パンデミックが起こったタイミングで、何の話をしていたのかピンと来る人がようやく少しだけ出始めたが、自分の中で評価してもらいたいタイミングやポイントはもう逃してしまった感がある。いや、僕自身の無意識が評価されることを恐れている可能性があるのか。
●6月16日/16th June
毎週、学部生のゼミをズームでするが、学生たちの意識がこのパンデミックでも全く変わっていない様子に危機感を抱く。マネジメント専攻の中でも観光とか文化とか扱っている唯一の研究室だが、選んでくるテーマはパンデミック以前と全く変わらない。
毎回、冒頭にこの1週間で起こった出来事や時代の見方の話をすることにしているが、今日は羽田空港のウェブページをシェアして本日の国際線の発着便を見せた。
何十便と並んでいる国際航路の殆どが欠航になっている現状を見せながら、「元の世界が本当に戻ると思うか?」と問いかける。観光についての今後の研究はこれまでのようなフォーマットは全く通用しない。
ディズニーランドは閉まったままだし、芸能界は荒れまくっているし、エンタメ産業は虫の息だ。だが彼らはまだそこにまなざしを向けていて、現実を見ようとする気配は薄い。
今年の年初の1月3日、まだコロナの問題が出る前にこんな投稿をした。
「2020年が来てしまったので、もう包み隠さず述べてしまおうと想う。この世界はもうどうにもならない。既に今の段階でいくら何をしようとしても、我々には未来がないのだ。だが、ここに至っても我々はまだ、これまで通りこのまま先があると思い込んでいる。」
そしてまだロックダウンなどが起こる前の3月5日にこんな投稿をした。
「昨年までは、どうにかその崩壊を食い止めることが出来ないかと心を砕いていた。しかし、もうその努力をすることがかえって無駄なことになるステージに入ってしまった。この段階では、今起きている目の前の問題を何とかしようとすればするほど、その問題を加速させる。良かれと思ってやることが、かえって状況を悪化させる。全て見えていると思っている人ほど実は何も見えていないという反転した世界だからだ。」
先日のズームインタビューでは僕自身の世界に向けるまなざしがパンデミック後に変わったか?と問われたが、それほど変わっていないと答えた。
なぜなら、このパンデミックで世界のシステムが狂い始めたという認識ではないからだ。元々狂ったシステムの上に全てが築かれていたことは随分と前から知っていた。それが正常化するのか、さらに狂っていくのかは分からないが、ともかくもうしばらくしたら様々なことがこれまで以上に表面化するだろう。
その時に今している研究が意味をなさなくなる可能性は大いにある。ハナムラならこの時期にその研究対象選ぶとすれば、こんな方向性で考えるということも伝えてはいるが、彼らがそれに関心持つかどうかは微妙だ。しっかりと考えてテーマを選んで欲しいと願う。
●6月19日/19th June
哲学は自分が弱虫だとを認めることから始まる。
●6月20日/20th June
本日は経済学研究科の社会人大学院のズーム講義。前期後半の「地域デザイン論」だが、今回は講義内容を映像記録としてきっちり撮ってアーカイブすることにする。いつかどこかで公開できる形にするかもしれない。
この講義は人類はどこから来て、何を求めて、どこに向かうのかをハナムラなりに読み解くサピエンス全史的な景観進化論として話を進める。経済学研究科の講義としてはかなり異色だと思うが、長尺でモノを考えないと、今回のパンデミックのような事態は乗り切れないので敢えて毎年この話をする。
1回目は「Introduction」として、大学院で一体何を学べば良いのかという話。経営学専攻なのでキャリアアップのために来る学生が多いが、税金が投資された皆さんにそんなスケールで考えてもらうと困るということを伝える。個人のスケールではなく地球や人類のスケールで捉えて欲しいということ。人類史を「風景と想像力」「移動と旅」「デザイン」という三つの補助線で見ていくことなどを話す。
後半の2回目は「Origine」と題して、人間の起源はどのあたりにあり、その頃にどのような風景を見ていたのかを人類学的の知見などから読み解く。人類の99.7%は移動の歴史であり、旅は我々の精神の奥底に刻まれている。古代の人類はどのように自然を眺めていたのか、あるいは自然や超自然と交信するシャーマニズムのまなざしはいかなるものだったのかについて共有する。
そして人にとって聖地とはいかなるもので、それはどのようにデザインされてきたのかを自分のフィールドワークも踏まえて解説する。最後は環境創造の起源として、農業を始めたことで、自然の中で人間はどのような位置付けになってきたのかについても触れる。
今回の内容は古代史あたりなので、概して我々のまなざしの根底にあるこの直近150年ぐらいの価値観とは全く違う原理があることを伝えるのが目的。所々にフラーが読み解いた流体地理学の話や、ネオテニーの話なども織り交ぜながら、これから人はどこへ向かうのかを考える。
●6月21日/21th June
6月21日の今日は夏至。
北半球では太陽が最も高い軌道を通るので太陽のエネルギーが一番強くなる。それに加えて新月なので、物事を始めるにも良い日だ。さらに今年は金環日食も重なっている。今日のウポーサタは一つの時代の転機になるだろう。
●6月24日/24th June
この2週間ほど、抱えている建築デザイン案件の山場で忙しかったので、経済の分析があんまり出来ていなかったが、やはりパンデミック後の世界のカタチが気にはなっている。縁あって経済学研究科にいるので、地球全体のデザインの観点から経済分析を続けているが、今のシステムが灰塵と化した後のことを考えねばならない。
元に戻るという幻想は早く捨てて、新しいことを考え始めた企業は生き残るだろうが、まなざしをなかなか切り替えられないところは厳しい状況になるだろう。
今回は通常のバブルとは起こる順番が逆だ。リーマンショックの時はまず資産の暴落、つまり貸借対照表の毀損から始まり、損益計算書の赤字へと進んだ。しかし今回はまずいきなり損益計算書が赤字になった。つまり、株価や社債が順調に流通しているように見えるにも関わらず、売上と仕入れと販売が止まって経費だけ持ち出しになった。
今はどの国も現金を入れて即死しないような状況を何とか生み出そうとしているが、いつまでも続かない。だからこれから産業恐慌、金融恐慌と広がっていくことになるだろう。
日本でも5月半ばの段階で決算が終わって下方修正した上場企業は650社近くあり、減少額は5兆円近くに上る。おそらくこれから決算終わった会社で赤字になるところがどんどん増えていく。
利益の減少、赤字転落、債務超過という順番で起こってきて、滞納した賃料や利子を払えない企業が経営意欲を失って、デフォルトという形になる状況が世界中で増えるだろう。そうなると社債や株は全て紙屑になる。最後はファンドとか金融債権になっていくが、それも紙屑になるとキャッシュしか残らなくなる。
債務者が誰も払えなくなり、債権者のところへ不良債権が貯まっていくと、最後はどこにくるのか。それは世界最大の債権国である日本だ。他の国々はハイパーインフレになっていくが、おそらく日本はハイパーデフレになっていく...。
この映像でも少しだけ触れたが、そもそも今の世界経済のお金の発行の仕組みがおかしな理屈から始まっている。そこを取り替えないと、また同じことが繰り返されるだろう。その時の世界秩序のあり方とかのヒントは概ね見え始めているのだが、まだ決定打に欠ける。思うところあり、並行して「易経」を読み返しながら、もう少し分析を続ける。
【ハナムラの視点#008】米ドル中心の世界経済とトランプの政策について
●6月26日/26th June
ずいぶん前だが、WIRELESS WIRE NEWSにアップした記事。
コロナ騒動の中でシェアするのを控えていたが、パンデミック後でも以前から我々の社会が抱えている問題がなくなったわけではない。
2018年に「地球の告白」というインスタレーション作品を制作した時に、人間の持っている拡大のリズムの限界性について触れたが、最も端的に表れているのが【ゴミ問題】だろう。
“そもそもゴミというのは一体何なのか?”
ネガティブの経済学シリーズでも引き続き考えて行きたい。
ネガティブの経済学03「コンビニと微生物」
●6月27日/27th June
経済学研究科の社会人大学院の前期「地域デザイン論」。人はどこから来てどこに向かうのかを語る壮大なまなざしの進化論だが、今夜は古代から中世がメインで、近代手前ぐらいまでのPerspectiveとLandscapeの回。
Perspectiveでは、その土地の気候風土によって人々のまなざしがどのように生まれたのかを和辻哲郎の「風土」を題材に話を始める。和辻は砂漠の民、草原の民、森林の民のそれぞれで自然に対する態度が異なり、それが違ったシステムを生んだとしたが、そこに足りない視点があることを話す。
それは「海洋の民」の視点。先週話したバックミンスター・フラーの流体地理学などの続きで、パジャウ族はじめ今でも居る海洋の民たちのルーツの話から、海洋の民が自然をどのように捉えているのかを一緒に見ていく。海を渡る航海技術だけでなく、位置を知るために空へとまなざしが必須だった彼らが天文学を生んだという説には説得力がある。言語学的に見て、広範囲の海域の言語の祖語が太平洋のオーストロネシア語族にあるとするブラストの説は興味深い。
次に名所の風景を題材に、中世の頃までは、すべての自然が風景として楽しまれていたわけではないことを確認する。限定された名所の風景が歌に読まれたり、絵画に描かれることで価値を帯びていたことを見る。
そもそも中世の頃に旅をしていたのは侵略目的の軍人と交易目的の商人がメインで、貴族が旅をしていたが、それも勉学のためだった。その中で聖地巡礼というのが、旅としての意味合いが大きかった。そんな宗教的聖地巡礼と現代のアニメの聖地巡礼との連続性についても触れる。その中で風景メディアがどのような役割を果たしてきたか。そして聖地の聖性がいかにして"演出"されてきたのかについて僕なりの見解を語る。
最後に、自然へのまなざしが最も表象されているのが庭であり、そのコスモロジーを読み解いていく。その自然観の違いを、丸山正男の政治思想から引用した。
後半のLandscapeでは、もう少し時代を下り、14世紀ルネサンスと大航海時代の話からスタート。この時代に西欧社会に異文化が持ち込まれ、また人々が旅に出たことが 17世期の近代的認識を用意したことを確認する。地域の外の規範に触れることでその地域が相対化されていく。
科学革命や宗教革命もその文脈の中で生まれるのを追いかける。デカルト的な主格二元論の世界観が出てきて、あらゆるものが客体化されていく中で、自然を美的対象として眺める「風景」という概念が生まれていくことを見る。それが顕著に現れるのは西洋の風景画の出現で、それまでの神や物語を主題とするものから自然を主題とするものへとシフトしていく。
セザンヌのセントヴィクトワール山を例に、芸術家が持つ脱出のまなざしが風景の発見に繋がることを話す。その文脈の延長に、工業風景の発見や現代アートの意義の話も少しだけ触れる。
絵画の変容の中で、サブライムとピクチュアレスクという二つの概念に触れて、それが我々が自然を見るときの図式を生み出していることを確認する。まなざしの更新が風景の正体であることをジンメルの理論から引用する。
3時間ぶっ通しの講義で、これだけ盛り沢山なので、どこまでついて来れてるかは分からない。ただディテールの情報ではなく、時代の大きな流れを縦に鷲づかみしてもらうための通史なので、気にせず話をする。
毎年M2の中には少なからず2回目を聞く学生が居るが、実際の論文テーマが定まってから、このまなざしの通史の重要さが分かったという声をよく聞く。一度でも通過しておけば、見方が変わるチャンスが開かれていることがわかると思うので毎年同じ話をするようにしている。でも毎年ちょっとずつ最新の知見と自分の認識のアップデートを加えているので、微妙に変わっているが。
●6月28日/28th June
悪意は善意を装って拡がっていく
冷酷さは優しさのフリをして近づいてくる
愚かさは賢さを隠れ蓑に差し込まれる
狡猾さは素朴さにまぎれて見えなくなる
不正は正義の顔をして行われる
計画は偶然かのように実行される
自分は間違えないと思うほど足元をすくわれる。
盲目的に信じることにも、無闇に疑うことにも注意しておかねばならない。
時として疑うことは信じることと表裏一体であり、信じることが人を無知にするように、疑うことは人を弱くするのだから。
世界で何が起こっているのかを情報でしか知ることが出来ない時代だ。まなざしをしっかり開いておかねば、自分の意思とは全く反対方向へと身体が動き出すかもしれない。だから世界に向ける自分のまなざしに常に気づいておきたい。
●6月29日/29th June
大阪公立大学の英語名称に不服な者から、ついに当大学も爆破予告を受けるという事態に。本日、打ち合わせに出て研究室に夕方戻ると大学内が騒然としていた。
僕自身は2017年にバルセロナでテロに巻き込まれて以降、テロリズム研究も視野に入れることにしたので関心は高い。あの時は翌日にすぐに現場に行って近くの店舗などで聞き込み調査をしたが、かなりの部分がメディア報道とは食い違っていた。
今回は、なぜか堺市役所に届いたという爆破予告だが、爆破以外にも様々な破壊行為が示唆されている。それを受け、大学の方としては全面閉鎖の対応をするとともに、警察と連携して威力業務妨害として対応する構えをしている。
英語名称の情報開示から数日で、予告した者がこれだけの準備をして実行できるのかどうかは怪しいが、ともかく爆破予告を受けると全学閉鎖となり立ち入り禁止の措置となる。いつもの大学が情報一つでガラリと見方が変わる。これこそまさに風景異化。
それよりも興味深いのは当大学だけでなく、ここのところ日本各地で相当な数の爆破予告が相次いでいる報道があること。なぜこの時期にこんなにも爆破予告が相次ぐのか。それは一体何を狙ったものか。予告することで何を起こし、結果誰が利するのか。報道が増えることに何かの意味があるのか。こういったことの方が興味深いとは思わないだろうか。
●6月30日/30th June
東京。都知事選盛り上がってるのだろうか。
香港国家安全維持法が可決されたのを、東京の中華料理店で確認する。
明日の返還記念日にはデモが計画されているので、その前に可決される構えだったが遂に。
数日前の夜中に、人民解放軍が秘密裏に香港に入ったらしいが、明日どうなることか...
Wireless wire newsに新しい記事をアップした。
僕には珍しく、観光をテーマにパンデミック後のこれからの世界を考えた。地域創造や都市と地域のあり方がどうなっていくのか、国家のあり方や世界秩序がどういう方向に向かうのか。
パンデミック後の今の状況を見ていると、きっとこうなるだろうという自分なりの予想だが、果たして。
グローバリズムから「インターローカリズム」へ
・壊滅的な観光産業
・拡がることを躊躇う世界
・多文化共生の限界
・足元に戻ってくる
・地域ごとに答えは違う
・「ない」ことが強みになる
・仕事と生活の変容
・真の「観光」が始まる
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