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「世界のはじまり」(2022年8月)

●8月3日/3rd Aug
 今年に入り、にわかに「戦争」がリアルに感じられる局面に入ってきた。未だ遠くの国で起こる惨事だという認識を持っているかもしれないが、もう既に着々と準備は進められていると見ていいだろう。
 それは情報操作、価値観の刷り込みが浸透したままでの我々の日々の小さな選択や一人ひとりの意思表明、そして何より「関心の低さ」よって徐々に導かれてきた。
 少し長いが今一度、拙著「まなざしの革命」の第三章「平和」から以下に引用する。この章は元々「戦争」というタイトルだったが、自分ごとに思えないのではないかという意見もあり「平和」に変えた。
 以下の引用は戦争の力学だけしか取り上げていないので、平和に向けて我々が何をすればいいのかを読み取るのは難しいが、もし何か感じるところがあるならば、この章全体を是非読んで頂きたい。きっとあなたのまなざしに革命が起こるはずだ。

以下、第三章「平和」より
「戦争が始まる表の理由には、国際的な秩序と平和を乱す国に対する集団安全保障という大義が掲げられる。だがその正義や大義の陰で戦争が企まれる理由はたった一つだ。それは、「利益」である。その利益とは国家にとってのものではない。「戦争屋」にとっての利益である。
 戦争では真の問題からまなざしをそらすために、権利や平等といった美しい言葉が並べられるが、それによって利益を手にする人々は社会では巧みに隠されている。だからこそ、戦争が一体誰によって仕掛けられているのかという見方が必要になる。戦争とは巨大なビジネスなのである。
(中略)
ちなみに2020年以降でも各国の軍事費は増大している。パンデミック下の2020年では世界最大の軍事力を誇るアメリカの軍事費は、およそ84兆円、全世界での軍事費を全て合わせると約214兆円となった。
 これは実際にミサイルを打ち合うような交戦時ではなく、平時にかかる軍の維持費である。戦闘員の人件費や訓練費、兵器の開発・調達費、弾薬や燃料の備蓄費用など、防衛に備えるために使われる私たちの税金は膨大だ。これが戦時になれば、この維持費に加えて戦費が必要になる。
 経済的観点から戦争を見ると、基本的には軍隊は何かを生産しているわけではなく、消費する一方の存在である。だから毎年5兆円以上を投資したとしても、それが回収されることはなく、掛け捨ての保険のようにその大半が失われていく。
 資産として残るのは兵器であるが、これも常に新しい軍備を維持するには定期的に購入し直さねばならない。だから、兵器を商品にしたビジネスをする軍需産業は、定期的に商品を使ってもらわねばならないという理屈になる。 それに一度購入した兵器の維持費も、ものすごい額だ。防衛省の試算では米国政府を窓口にしたFMS(対外有償軍事援助)で購入した兵器の維持費だけで.廃棄されるまでの20〜30年間に2.7兆円以上が必要であるという。何もせずとも、これだけのお金がかかる。
(中略)
 戦争が始まれば平時とは比べ物にならないくらいの戦費が必要になる。実際に歴史上、どの戦争にも莫大な資金が投じられてきた。日本が近代化以降に経験した戦争では、日清戦争で約2.3億円の戦費が投じられ、それは当時の日本のGDPの約17%に相当する額だという。
 日露戦争の戦費は約18億円で、当時のGDPの約60%にも上る。これが太平洋戦争となると、とんでもない額に跳ね上がり、その戦費総額は約2千億円となる。当時のGDPは228億円なので、実にGDPの約880%に上るお金が戦争に費やされたことになる。
(中略)
 国の指導者の多くは、国防や国家としての主権を保持するために、軍事力が必要であることと同時に、戦争はマネー・ゲームであることを理解している。だから怒りにまかせて戦争をするわけではない。実際に前線で命をかけねばならない軍隊も、決して戦争がしたいとは思っていない。
 だが、さまざまな力学で戦争せざるをえない状況に追い込まれていく。圧力をかけて戦争をさせてたがるのは誰なのか。脅しや甘い話に乗って、利用されるのは誰なのか。そんな事情を知らずに、チープに掲げられた反戦論を信じて正義を煽られるのは誰なのか。それを冷静に見つめるまなざしが増えることが、本当の戦争の抑止力になるずだ。」

●8月4日/4th Aug
 紀伊國屋書店のランキングで第3位に。楽天、Amazonでも在庫が少なくなってきた模様。ご協力頂きました皆さま、見守って下さった皆さまに心より感謝。

●8月7日/7th Aug
 この週末は大阪公立大学になってから初めてのオープンキャンパス。4月に環境社会システム学類に所属が変わったばかりなのに、なぜかオープンキャンパス委員になってしまい、この数ヶ月はその業務にも追われる。学類のほとんどの教員とリアルに面識がないままに、当日を迎えたが、結果としては通しで本学類だけで600人近くの来場者を迎えて大盛況だったように思える。
 普段は枠組みをつくる側ではなく、呼ばれて話すコンテンツ側にいることが多いのだが、今回はプロデュースサイド。なので一つ上のメタクリエイションとしてプランを練った。環境社会システム学類は理系から文系まで幅広い研究者がいて、その多様性と総合性を売り出したいようなので、そういうキャスティングにした。
 土曜日の午前に設定した座談会では、ご専門が雑草生物学、都市地理学、文化人類学、都市防災学の4人の先生に、それぞれ異なる領域から「何をどう問い、またなぜ問うのか」という観点でご自身の研究を紹介してもらい、後半はクロストークをファシリテーションする。
 午後には模擬授業としてご専門がそれぞれ認知言語学と環境政策学の2人の先生に話してもらい、それを会場の質疑応答交えながらまとめていく。日曜日の午後の模擬授業ではご専門がそれぞれ植物生産科学と経済学の2人の先生に話してもらった。今日は学類の説明として10分ほどプレゼンのお役目もあり、この間にグラフィックデザインしていた環境社会システムの相関ダイアグラムも披露した。
 今回はMCとファシリテーションもしたが、僕自身は元々の出自の風景学が専門特化より全方位型のため、こうしたバラバラの学問分野のメタな共通点や差異を括るのは個人的にも得意な方だ。なので先生方にも気分良く話して頂きながら論点とメッセージをまとめていった。一方でMCの辛いところは、自分のメッセージがあまり差し込めないこと。自分ならこんな風に歌うのにとシンガーたちを横目で見ながら、今回はラッパーとして場を盛り上げるのが仕事。
 だから自分のメッセージとは異なっていても場を盛り下げないように努める。それはそれなりに演じれてしまうので、楽しめたことは楽しめたし、本来はラッパーもMC(司会)と称してメッセージを密かに差し込む反逆者的なところがあるはず。なのでちょいちょい"オレ"なりのリリックを挟みながら場の風景異化を狙った。
 何より興味深かったのは、来場した高校生たちの質問がいずれも非常に鋭かったこと。おそらく彼ら彼女たちにしては素朴な問いなのだろうが、大人の理屈で決まっている社会のお約束事の矛盾を鋭く突いていて痛快だった。教員たちがたじろぐ質問もあれば、うまく誤魔化して本質的なことを回避しているような雰囲気も一部見られた。
 学生たちにはその調子でそのまま行って欲しいのだが、なぜか大学を卒業する頃には、多くの学生がすっかりと丸められてしまっている(「丸め込まれてしまっている」という表現の方が適切か)。ということは大学教育や教員の認識にそもそも問題があることと、そうならざるを得ない社会の要請と構造に問題があるのは間違いない。それは本学がどうこうというような小さなことではなく、教育なるもの全体的に言えるのかもしれない。
 教育とは社会が前提としている価値観に基づいてなされがちだ。表層の価値観の多様性に焦点が当たるが、その光が強ければ強いほど見かけの多様性だけが浮き上がり、一番根底にある価値観は暗闇の中で無意識化したままだ。だがその根底の価値観がもし歪んでいると、その上の問題は「部分的」には解決できない。
 一方でそうした歪みを「個人的」には解決出来る方法があるのだろうと、模索し続けて20年ぐらいだが、システムとしての解決には限界を感じている。だからアトリエでは私塾のようなことをしていたが、またいつかどこかで始めねばな...。とか不謹慎なことを想いながら仕事は淡々とこなす。

●8月9日/9th Aug
竣工から2ヶ月ほどでランドスケープが少し落ち着いてきた。築山の芝がいまいち成長が良くなく、センチピード以外も含め色々と対策を考える。一方でペニセタムはかなり活着してきていて、特にファイヤーワークスは予想以上に元気に育っている。モニュメントのある半屋外の湿度管理は引き続き課題があるので対策が必要か。

●8月10日/10th Aug
2年前に「常識」の章について書いていたか。「まなざしの革命」になる前。

●8月10日/10th Aug
 形態学とダンスとの関係を調べるために、ロイ・フラー以降のモダンダンスからダムタイプに至るまで、ざっくりしたパフォーマンスの系譜を追いかける。ローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス』で流れは理解できるが、バウハウスにいたオスカー・シュレンマーの仕事が面白いのでもう一冊取り寄せた。
 イサムノグチもマーサ・グレアムの舞台で舞台美術をしていたが、シュレンマーも舞台から衣装まで人間の身体にモダニズムを要求するかなり面白い試みをしている。僕は舞台においては芝居する側だったので舞台美術という意味ではそれほど経験はないが、一度自分の主演舞台の空間デザインをしたことがあることを思い出した。
 この時は割と出ハケが複雑な構成の芝居だったのと、舞台を上下に分けて演技スペースを立体的に構成する必要があった。なので角材を並べて垂直に上下をつなぐ形にして、同時に物語構成上必要だった森というモチーフ、廃屋のような風景と鉄塔のメタファーも抽象的に表現した。模型であらかじめ空間構成をスタディしてから実際に作る建築的なアプローチをしたが、結構楽しかったのでまた機会があればやってもいいかな。

●8月10日/10th Aug
産まれて1週間の子やぎが眠気を堪えきれずに寝落ちする。超絶カワイイ。

●8月12日/12th Aug
眼、耳、鼻、舌、肌でバラバラの時間に認識される感覚を脳は一つにまとめて出来事にしてしまう。いわゆる脳の「同時認識性」の錯覚だが、仏教ではそれを打ち破るための瞑想修行をする。
 この同時認識性が脳機能としてデフォルトに組み込まれていることが、相対性理論を曖昧にしている一つの要因となっている。時間論も同様だ。
 物理学では観察対象の同時性は厳密に論じられるかもしれないが、その同時性を認識する「まなざし」側が錯覚を起こしているのであれば、それは中途半端にしか理論化できていないことになるだろう。だから景と観の両方を考えないと世界は正しく把握できない。

●8月12日/12th Aug
一つの出来事が起こった時に最低限五つくらいのレイヤーで見るようにしている。報道通りに見る表面のレイヤーで理解するのは一般的だが、それは基本的には作られたストーリーだ。ここ最近はその裏側にある謀略のレイヤーで見れる人も徐々に増えてきたので、そこくらいまでは理性的に共有出来るようになってきた。
 だが、その下にある呪術のレイヤーと神仏のレイヤーとなると、共有出来る人、して良い人は限られてくる。多くの人が最も興味本位で知りたがる所だが、二番目のレイヤー以上に知ると危ないこともある上、俄には信じ難いことも多い。何より複雑な力学が働いていて実際に分からないことも多い。だがここを理解しないと、なぜ謀略のレイヤーがあるのか、何が起こっているのか分からないこともある。
 一方でさらに根底にある法則のレイヤーになると、また多くの人に共有出来るようになるし、そこを押さえておけば三、四のレイヤーを無闇に恐れる必要もない。だから本当に伝えるべきはこの法のレイヤーであり、途中のレイヤーはさほど重要ではないので、敢えて語らない。ところがこの法のレイヤーはずっと語られ続けているため、あまりに当たり前すぎて今度は多くの人に響かないことがある。それが難しいところだ。

●8月14日/14th Aug
スケボー禁止の看板は街中のあちこちにある一方で、オリンピックの公式種目になっているという矛盾に着目したのはいいのだが、ストリートダンスやスケボーをしているのは不良だ、という認識を未だに持っている社会科学系の学者がいることにいささか苦笑した。
 ジョギングやランニングは健全で、ヒップホップカルチャーは不健全だという視点は、フーコーの狂気と正気、病気と健康の峻別を思い出させる。今で言うとマスクが踏み絵になっているのだろう。自分のまなざしに革命など起こるはずもないか。

●8月14日/14th Aug
 
近々、ポッドキャストの「まなざしの革命放送」の第二シーズンを始めようと思うのだが、出来れば高校生に聴いてほしいなと思っている。きっと今の社会に違和感は感じているが、答えが見つからなくて悩んでいる若者たちがたくさんいるはずだ。
 そういう悩んで苦しんでいる不器用に見える子ほど、大人が既に用意した答えに満足している器用な子よりも状況を新しく切り開く可能性がある。多分僕の放送ではそうした子たちにヒントになるようなことを話していると思う。
 生きるという問題は誰にとっても切実で、そこに年齢など関係がない。いくつになっても分からないことがあるし、誰に聞いていいのか分からないこともある。高校の先生や大学の先生にだって答えられないことがたくさんあるし、分からないまま適当に答えていることもたくさんある。
 僕自身も出来るだけ優しい言葉で話すようにはしているが、それでも簡単には理解できないこともあるだろう。だが周りの大人が答えられないような時にこそ、僕の話をヒントに出来るような状況は開いておきたい。それには周りの大人たちの声とチカラこそ必要になってくるだろう。Spotifyで聴けますので、まずは大人からどうぞ。


●8月18日/18th Aug
 
ちょうど8ヶ月前の満月の晩に、大阪の近代建築「生駒ビルヂング」の地下サロンにて行ったポッドキャスト「まなざしの革命放送」の第15回目の公開収録の映像がYouTubeにアップされました。パルチザンの拠点のような世界観が醸されています。
 映像は前半と後半の2本あり、前半は公開収録としてそれまでの14回の方法のダイジェストと振り返り、後半は来場者やTwitterからの質疑応答とディスカッションとなっております。
 公開収録なのでほぼ独り語りですが、結構ディープな話をしており、社会の読み取りや、時代の流れの話だけではなく、愛と承認、人は死ぬとどうなるのか、そして生きるとはどういうことか、といった哲学的な話もしております。
 まだ「まなざしの革命」の出版前のイベントですが、エッセンスは全て語られていて、きっとこの困難な時代をこれから生きていく上で何かのヒントになると思います。YouTubeの映像ご覧頂いてご関心寄せて頂いたなら、是非ポッドキャストや書籍もどうぞ。

●8月20日/20th Aug
 
感情に身を任せて言葉に温度を込めて語る方が簡単だし、いちいち立ち止まって確かめながら言葉を紡ぐよりも迫力を持って伝わる場合が多いことは分かっている。聞いている方も気分がスッキリするし、多くの人に伝えたくもなるだろう。
 だが、そこを敢えて抑えて冷静に理性的に言葉を積み上げるのがどれほど難しいことかは、なかなか理解されない。理解されないどころかスルーされ、認識しても誰も口にしなくなり、次第にそこにメッセージなど無かったことになる。
 今の世の中は、感情を揺さぶる強いメッセージにだけ人は反応する。あるいは都合の良いポジティブなメッセージだけがシェアされる。理性的な警告にメッセージを感じ取れない者ばかりになるか、あるいは気づいていても誰も言葉を繋げていかない社会は滅びを迎えても仕方ないのかもしれない。

●8月21日/21st Aug
 
感情に身を任せて同じお湯でも電気で沸かしたものと焚火で沸かしたものとでは、なぜこんなに味が違うのだろうか。文学の範囲ではなく科学としてそんな問いを立てる場所が始まる。

●8月24日/24th Aug
たまにこのワークショップを「まなざしのデザイン」の枠組みですることありますが、これは本よりもリアルに解説を聞くとより深まると思いますよ。また機会あれば是非。

●8月24日/24th Aug
ポッドキャスト、Spotifyで配信中の「まなざしの革命放送」。第二シーズンに向けてカバーアートを更新した。
 第一シーズンは全21話ありますので、書籍「まなざしの革命 世界の見方は変えられる」と合わせてどうぞお聴きください。

●8月26日/26th Aug
その人が真善美の何に価値を置いているのかを観察していると、思考や行動のパターンが見えてくることがある。人間は枝葉の部分は多様だが、価値観の根幹はそれほどヴァリエーションがないのだろう。

●8月26日/26th Aug
個人が評価しても社会は評価しないが、社会が評価すると個人は簡単に評価し始める。ただ、社会の評価によって自らの評価を定めるのは革命的な態度ではなく、単なる日和見に過ぎない。
 僕が戦っているものは政治や経済、社会やコミュニティといったスケールのものではなく、その根本にある人間の愚かさと生きるということの真理に対して戦いを挑んでいる。
 だからこれまでの世間的な成功の尺度を当てはめても、決して評価されることはないことは覚悟してはいる。その反面、メッセージを受け取り自らを問い直している革命家は増えているだろうと信じたい。
 メッセージの内容ではなく本人との関係性で評価を定める社会で、何の後ろ盾もなく徒手空拳で戦うにはあまりに孤独だが、いつか大きな波になればと願う。

●8月27日/27th Aug
ポッドキャストの「まなざしの革命放送」第二シーズンを配信しました。ゆるりとやっていきます。一つ前の投稿のコメント欄か、Spotifyで「まなざしの革命放送」でご検索頂くとお聴き頂けます。

この放送から新しく第二シーズンが始まります。前回放送のvol.021からちょうど7ヶ月になる第二シーズンでは、世界のどこかにある「S地点」という森の中からお送りします。新月の晩に配信するこの初回はイントロダクションとして、第二シーズンの枠組とこの半年の報道の振り返り、そしてこれまでの常識や価値観の限界、この先の科学や自然との付き合い方について、思いつくままに話してみます。

●8月29日/29th Aug
愚かに見える者に「愚かである」と指摘することほど愚かなことはないのだろう。愚かであるとは気づいていないことであり、指摘して気づかないからこそ愚かなのだから。
 そして気づいていないことにも気づかないから愚かなのであり、そういう意味で全てのことに気づけない我々はどこかしら必ず愚かである。
 愚かでなくなることは気づくことであるならば、まずは自分が愚かであることに気づくと愚かではない道が一つ開けるのだろう。それは人から指摘されても気がつかない場合が多い。

●8月30日/30th Aug
人と分かりあうことなど出来るのだろうか。そんな誰もが抱く日々の疑問に答えています。あなたのまなざしに革命が起こることを願って。

●8月31日/31st Aug
人と分か7年前にバングラデシュで彫刻堤防を作ろうとしていた頃。パキスタンも大変なことになっているようだが、皆元気にしているだろうか。

●8月31日/31st Aug
求められもしないことをする必要もないか。

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