自己という病
※「まなざしのデザイン <世界の見方>を変える方法」の第12章に修正稿を載せています。そちらもご参照下さい。
「自己肯定感が持てない」という病は深刻である。多くの人が自分も知らない間に、この病にかかっている。そしてこの病は何をするにしてもやっかいなのである。というよりも生きていく上で厄介である。場合によっては死に至る病なのだ。
この10年ほど、社会人や学生を含めて色々と観察してきた中で、相当な数の人がこの病にかかっていると感じている。そしてこの自己肯定感とその人の能力はある一定の程度までは比例している。自己肯定感が持てないと、何をやっても自信が持てないので物事がうまく行かないからだ。だから自己肯定感がない人がそれを持てるようになると、飛躍的に能力が向上する場合が多い。
おそらくだが人は生まれながらにしてまず自己肯定感が持てないままスタートするのだろう。そして通常は自己肯定感は、人々の中で培われて育つ。最初は両親から始まり、友人、学校、会社、社会というように様々な人々との関係性の中で育まれていく。適切な時期に適切な承認が得られねば、自己否定病にかかってしまう。だからこの自己肯定感が持てないという病をまずは治療することが重要なのだが、一度成長してしまうと外から培うのはなかなか難しい。
この自己否定感は意識されている場合もあるが、通常は無意識の領域にある。その原因を手繰り寄せていくと、自分の物心がつく前に、両親との関係性においてどこかで自己否定感がプログラムされている場合が多い。一見、自己肯定感が強いように見える人でも、それは自己否定感の反動からそうなっているケースも多い。しかも無意識の領域にあるので、本人もそうであることを自覚していない。だから案外他者の評価を気にしたりするようになる。
自己肯定感を自力で生み出せないまま成長してしまうと、他者からの肯定だけで自分の肯定が固められてしまう、それは麻薬のようなもので、切れるとまたそれを欲するというような中毒性を持っている。そしてそれはどんどんエスカレートしていく。最初は心地よかった他者の承認も慣れてくるとエスカレートしていき、より強い承認を求めるようになるのだ。それが叶えられないと他者への攻撃性へとつながることがある。
そういう小さい頃に埋め込まれた自己否定感のプログラミングは、事実をニュートラルに見ることを妨げる。他者が肯定しているにも関わらず、他者から受けるほんの少しの批判だけにまなざしが注がれ、それが何倍にも膨らんで感じられる。そしてその否定感だけを材料にストーリーが組み立てられるのだ。そしてさらに厄介なのは、それが反復されて語られたり想起されることで、脳の中でその回路が太くなっていく。その回路をめぐる反復の回数が多ければ多いほど、そこから脱却するのは難しく、当人の中では揺るぎない事実になってくる。
そしてさらにそうした自己否定感というのは、この情報化社会の中で助長されていく。情報化が進むということは比較が可能になる。そしてそれが序列化されて見える。その序列化を助長しているのはもちろん経済というわかりやすい指標である。自己否定プログラムとそれが合わさるとますます酷いことになる。
コーチングの役割の一つが、そうした自己否定感をいかに振り払って、能力を開花させていくのかということだ。(その反対の行為が自己否定感を煽る洗脳やマインドコントロールのようなものだと言える。)今の社会でこれほど自己啓発セミナーや能力向上のためのセミナーが盛んに行われていることは、この病がいかに広がっているかを物語る一つの指標かもしれない。しかし本当の意味で自己肯定感を培うには、他人の話をいくら聞いても難しいことがある。自分と向き合い冷静に見つめる孤独な時間をどれだけ潜り抜けるかが重要なのだと個人的には思う。
本当の意味での教育は必ずしも自己肯定感だけを育てるものではない。特に高等教育においてはむしろ自己批判力を育てていくことが重要だと僕は考えている。自己否定ではなく自己批判である。ここに違いは似て非なるものだ。自己批判には多少の自己否定も含まれるからだ。もちろん初等教育の段階では自己肯定感をまずは育てねばならない。しかし自己肯定感だけが強くなっていくとまた別の問題が発生する。だから批判的に自分を眺める訓練が必要になる。
たまにバランスが悪いほど自肯定感の強い人がいるが、そういう人は自分の行動の肯定から入るので、全ての行為と思考は正当化される。他者は間違っていて、自分は正しいというところがいつでも出発点になるので成長の機会が極端に少なくなる。己の行為を振り返ることもなくなり、場合によっては他者から孤立することもある。挫折を何度か味わうことで自己否定感がブレンドされていくものだが、あまりに自己肯定感が強い人は挫折していることに気づかないこともある。そのままいければ幸せかとは思うが、なかなかそうは行かないことが多い上、人が寄り付かなくなる。
だから自己否定感が強くても、自己肯定感が強くてもニュートラルに物事を見る妨げになる。それは日々の生活の中で振幅するものだが、この情報化社会の中ではその振幅の幅が大きく揺らがされることで精神が参ってしまう人が多い。それに柔軟に対応できれば良いが、難しいので頑なに物の見方を固めてしまうのだ。僕自身もそのような状況を微力ながら何とかしたいと思い、「まなざしのデザイン」などという珍奇な言い回しで説明することもある。
それは自己肯定感の醸成にも自己批判の醸成にも対応できるように考えたいとは思っているが、本当の問題の根っこに横たわっているのは自己肯定でも、自己否定でもない。それ以前の「自己」というこの厄介な代物である。自己肯定にしても自己否定にしても、自己というものを前提にしていることから来る病だ。そこをどう捉えるのかがポイントになってくる。
私たちが生きている世界には事実があるのではなく、その事実は必ず自己というフィルターを通って認識され、理解される。そのフィルターに色がついていればその色に事実は染まる。それは自己という認識がある以上、つまり自己の肉体を持っている以上は仕方がないことである。実はその認識を打ち破るためには身体的・精神的に鍛錬する方法はあるのだが、それは万人にはハードルが高い。(本当はそうではないし、最近はその鍛錬をする人も増えている。)
だから何か出来事が起こった時にまずは自己のフィルターを疑うところから始めねばならない。まなざしをデザインすることやモノの見方を変えるというのは、自分の都合の良いように物事を見ることではなく、自分の都合を取り外すことなのだ。
2017.05.16
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