白い猫と妻の失踪22、エリックのいない世界 ジュリエット2042
私は、相変わらず、海のそばで暮らしている。パリのマンションもそのままあるので、好きな時に行き来している。夫のいない生活はとても寂しい。夫が他界して1年がたった。
とうとう夫が亡くなるまで、私の記憶は戻らなかった。でも生活にも仕事にも何も支障がなかったし、二人でとても楽しい人生を過ごすことができて、お互いに満足している。夫が突然1年とちょっと前に病気になって、1ヶ月後にはあっという間に天国に行ってしまって、私は心底驚き、今でもまだ唖然としている。
「人ってこんなにあっという間に突然いなくなってしまうのね。」と、今日も友人と話していたところだ。私にはまだ全然、夫が亡くなったという実感がなかった。ちょっとそこまで出かけてくるね。と、出かけているような気持ちだ。すぐに帰ってきそうな気がしてならなかった。彼は自分の人生にとても満足していた。夫は病気になってからも、最後まで絵を描き続け、ほとんどこの家で過ごした。最後まで「君との生活は本当におもちゃ箱をひっくり返したみたいに、毎日楽しいことばかりだったなあ。僕の人生は大成功。何も思い残すことなんてないさ!」と、言っていた。
私たちは職業も性格も真逆だったのが良かったのかもしれない。私はいつでも現実的で、行動的。彼はどちらかといえば、思慮深く、想像の世界に生きていた。これが、芸術家同士、ジャーナリスト同士だと、ちょっと偏りが出ていたかもしれない。
幸い、夫は病に倒れるまでは、健康そのもので仕事も順調で毎日とても機嫌がよかった。男性が一人残されてしまうと、年老いてから寂しくて大変そうだとよく聞くので、私が残された方が良かったのだろう。
ある日夫のことを恋しく思いながら、一人浜辺にしゃがんで、赤いタータンチェックのショールにくるまって、イヤフォーンで音楽を聴きながら月を眺めていた。
すると、白い美しい物体が、穏やかな海の水面を歩いて、こちらに向かってやってきた。猫だった。どう考えても、現実味のない話だ。でも、夫から猫の話を聞いたことがあるので、私はあまり怖くはなかった。それに、いつか夫が話していた猫に会えるかもしれない。という予感のようなものがあった。
だから、私は思わず「わお!やっと来てくれたのね。ポンポン!」と喜びの声を上げた。猫は少し驚いて、浜辺でピョンっと数歩後ろに下がって、私をじっと見た。
「驚かせてごめんなさい。夫がずっと前にあなたに会ったことがあるの。」浜辺で白い猫ちゃんがこちらにやってくる様子は、神々しくもあり、とても可愛らしい姿だった。真っ白に光り輝いているピカピカの猫だった。
「ポンポンと呼んでいいかしら。ポンポンは夫が会ったことのある白猫ちゃんなの。言葉も話せたらしいのよ。あなたも、言葉はわかるんでしょう?」
「まあね。そんなことより、猫が海の上を歩いて来たっていうのに、そこはどうでもいいんだね。まったく珍しい人だ。」と、ポンポンは淡々と答えた。
「すごい!本当に喋れるのね!あなたにずっとずっと、聞きたいことがあったのよ。夫は、あなたに会ってから人生が変わったみたいだと言っていたわ。私、記憶がない時代があるの。そのことを聞いてみたくてずーっと前から待ってたのよ!」
「ここじゃまずいよ。人が来るかもしれない。」と猫は顔をしかめて、小さな声で言った。
「それもそうね。じゃあ、おうちに帰りましょう。抱っこしたほうがいい?一人で歩きたい?」
「お好きなように。」と猫が言った。
「じゃあ、付いてきてちょうだい。私の家に案内するわね。」と、猫に声をかけて家に向かった。猫は、静かについてきた。
家に帰ってみて、驚いたことが一つあった。
庭から入るガラス窓に、猫用の出入り口が取り付けてあった。
「まあ。すごいわ。あなたの出入り口がある。」
入ってみると、家の中には猫のトイレがあって、砂まで入っていた。
餌と水の入った餌のお皿まであった。
「魔法みたいね。どこから湧いてくるのかしら。」と驚いて猫に話しかけた。
「以前旦那さんが用意してくれたものさ。」と、猫は当たり前のように、猫ベッドに向かうと、クンクンと匂いを嗅ぎ、くるくると何度か回り、納得したように丸くなって腰を下ろした。
「わあ。夫の絵に描かれている通りだわ。そうそう。彼が描いた猫ちゃんの姿にそっくり!」
「ま、そりゃそうだろうさ。モデルは僕なんだから。」
「お願い、私の記憶の話をしてくれない?あなたなら何か知っているのではないかと思って。あなたに会えるのを楽しみにしていたのよ。」
「そんなことより、普通は、もう少しこの状況に疑いを持つはずなんだけどな。そんなにすんなり受け入れられると、かえって調子が狂うなあ。」
「疑いなんてないもの。そもそも、この世界は不思議な事ばかりじゃない。生き物が勝手に生まれたり死んだり。急に誰かと一緒に住んだり、別れたり。好きだったはずの誰かの事を怒ったり許したり。今更、こんな事で驚かないわ。」
「たくさんは話せないんだ。質問は1日に1つだけ。」
「ええ。わかったわ。1つだけ。」と、私は猫の目に顔を近づけて、じっと見た。不思議な色の瞳だった。まるで灯台の灯る時のような、吸い込まれそうな美しく薄く輝く緑色だ。
「記憶をどこかに忘れてきた話だね?」
「ええ、そうなの。スッポリと抜け落ちてるの。私にとっては、ある瞬間にパッと瞬時に3年後に、瞬間移動しちゃったのね。パンって手を叩いたら、そこにタイムスリップ!みたいにね。」
「まあ、いいじゃない。特に支障はなさそうだし。」
「確かにそうね。でも気持ちが悪いじゃない。どこで何していたか覚えていないなんて。」
「別の国にいたかもしれない。別の人と暮らしたかもしれない。」
「それもありえるわよね。」
「それはそれで、楽しそうに聞こえるよ。恋をしていたのかもしれない。別人になりすまして、どこかで暮らしていたのかも。」
「もしそうなら、エリックに悪いわ。もう時効でしょうけど。」とウインクして私は、ウキウキした気持ちで、シャワーを浴びて、パジャマに着替え。ベッドに入った。
足元に猫がいてくれると思うと、ふわふわと暖かい温もりがあって、とても嬉しかった。夫に報告したい気持ちでいっぱいだった。
「夢の中でエリックに話してあげなくちゃね。やっとポンポンと会えたわよ!」って。と、猫に話しかけながら眠りについた。夫がいなくなってから、初めての深く長い眠りだった。12時間近く眠り続けた。
長い長い夢を見た。なぜか私は海の上を歩いているみたいだった。猫ちゃんみたいに。滑るように、飛ぶように、数センチだけ浮かんで海上の上をスイスイと歩いていた。とても気持ちが良かった。
「誰だってしばらくの間、引きこもったり雲隠れしたくなることはある。意識の上で。多分、それに近いことだったんじゃないかな。君の場合は、運良く時空の歪みが戻って、元の世界にうまく戻れた。戻れなくなる人も多いんだ。最後まで諦めずに光を見失わなくてよかった。ラッキーだったんだ。」と、夢の中でポンポンは言った。