私の音楽遍歴 目覚め ・・・ 吹奏楽との出会い Part.2
前回、トロンボーンを吹きたい!という欲求が湧いてきた私です。
なんたる運命か、私が通っていた中学校には吹奏楽部がありました。
そして、そこには楽器が眠っていて、、、
吹奏楽部に入部!
中学2年生の秋、トロンボーンを吹きたくなった私ですが、突然部活に行って入部させて下さい!って出来るわけもありませんでした。
こんなタイミングで部活に入るなんて?ですよね(^^;)普通
たまたま、同じクラスに吹奏楽部のTuba吹きがいて、そいつにちょっと話したら、即顧問の先生のところに連れていかれて、
「先生!こいつ入部したいって言ってます!」
そしたら、先生ニコニコして即入部決定しちゃいましたヘ(^o^)/
希望通りにトロンボーンに
「トロンボーンをやりたいんです」と言ったら、
「お前は腕も長いしちょうど良い!」
って、なったんだけど実は人材がいなくて困ってたということは後で知りました。
トロンボーンパートにはそのとき3年生しかいなかったんですよ。2年生は私だけ。1年生一人をユーフォに貸し出してたんです。
これも又運命ですかね。
そして、私にあてがわれた楽器は、、、
音楽室の隣の楽器庫(こんな部屋があるの知らなかった(^^ゞ)の奥から引っ張り出されてきた、ヴィンテージもののテナーでした。
ていうか、古くて使ってなかった骨董品のような楽器(*_*)ヤレヤレ
でも、当時の私にしてみれば、リコーダー・ハーモニカ以外の、生まれて初めての楽器です。
掃除の仕方を教わって、大事に家に抱えて帰りました。
実は、抱えないとケースが開いちゃうくらいのオンボロで、、、(*_*)
渋谷の道玄坂にあるヤマハでお掃除キット買って、たらいにぬるま湯をはって入浴させましたよ。
スライドの内側は、煙突掃除やるみたいなフレキシブルなブラシでごしごし。
サビサビのベルは、メタルポリッシュで磨いて、、、でも、
誰も教えてくれなかったけど、ラッカーかけないとすぐに錆びるんだよね。
とまぁ、結構難ありの楽器でしたが、結局は3年の冬に引退するまで使ったんですけどね。
3年生になったときに、なぜ取り替えなかったんだろう、、、(?_?)
先生は黄色い教則本
私が入部した頃は、3年生は吹奏楽コンクール東京都大会に向けての練習の最終段階。
初心者の面倒なんか見てる暇ないですよね。
ホントにさわりのところだけ教わって、後はこれ読みながら練習しておいてと渡されたのが、全音の黄色い教則本。
今から思えばとんでもなく不安なスタートだけど、トロンボーンを吹ける喜びで細かいことはどうでも良かったんじゃないかと(^○^) 多分。
あっという間に3年生
実はこの後記憶がすっ飛んで、3年生になっちゃいました。
何とかかんとか自己流で続けて来られました(^^ゞ
そのときのトロンボーンパートは、
3年生一人、2年生二人(内一人はユーフォから出戻り、一人は初心者)、1年生一人の四人体制。実質のパトリは2年生の子。少しホッとしてましたね
当時の私と言えば、
まだ楽譜のほうはそれほど読めるとは言えなかったけど、教則本を読み込むうちに少しずつ頭の中のぐちゃぐちゃな糸のかたまりがほどけてきたみたい。楽譜にはポジションの数字が一杯(^◇^;)
その頃になると、”全全半全全全半” の意味がわかってきました。
なるほど、そういうことだったのか。
木琴・ピアノの鍵盤の意味もわかってきたし、
何よりも私の中に新たな変化が生まれてきたのです。
3年7組になった私の担任は吹奏楽部顧問のSWD先生でした(^○^)
そして、教室が音楽室のすぐそば。
休み時間には音楽室に行って、ピアノの練習を始めたんです。
きっかけは、バイエルがあったこと。
2年の時から同じクラスの山さんと一緒に遊びがてらバイエルを練習始めたんです。これもまた、レールの敷かれた運命でしょうかね。
吹奏楽コンクールに挑戦
当時の部活は毎年コンクールに出場していました。
前年度もA組で東京都大会に出場してました。と、聞いてます(^^;)よく知りませんでした。
で、3年生の秋は私にとって最初で最後のコンクールなわけです。
物事の重大さはまったく理解していませんでしたが、決まりでしたからね。出るのが当たり前という事で(^^;)
3年生だから受験勉強するから部活やめます。なんて話は聞きませんでした。
高校受験に備えなくていいのか?なんてことはまったく頭にありませんでした。親もなんも言わなかったなぁ。だって、学級顧問が吹奏楽部顧問なんだからついてくしかないよね(^○^)
初めての普門館へ
コンクールに挑戦した3年生の秋。1972年。
この年は記念すべき年でありました。
それは私がコンクールに出た年だからヘ(^o^)/
ではなくて、、、
かつて吹奏楽の甲子園といわれた「普門館」が吹奏楽コンクールで始めて使われた年だったんです。東京都大会も「普門館」で開催されました。
右も左も分からない少年はそんなことを知る由もありません(・_・)
そりゃそうだ。
ほかにも、中学生用の課題曲が用意されたのも初めてで、
岩井直溥先生作曲の、シンコペーテッドマーチ「明日に向かって」
これ一択です。
そして、われらがH中の挑んだ自由曲は、
G.Holst作曲 組曲「惑星」から「木星(Jupiter)」でした。
われらH中は、お茶の水女子大附属高校(?)の講堂での予選を経て、
無事に東京都大会に駒を進めることが出来ました。
私が普門館のステージに上がったのはこの一度だけなのですが、
そのときの印象はといえば、
床が真っ黒いゴム!
ひな壇にもゴム!(ゴムじゃなくなんとかという樹脂です)
隣のメンバーまで遠い!(手が届かない(@@;))
ステージが体育館みたいに広い!
周りの音が聞こえない!
音が真っ暗な客席に吸い込まれる!
なんて大雑把な印象でしょうか(^^;)
ですが、それからの私にとって本当に印象深かったことがありました。
それは、T島第十中の演奏を聴いたことでした。
同じ中学生が演奏しているとは思えない音楽の世界に引き込まれました。
自由曲は、Rコルサコフの交響組曲「シェエラザード」第四楽章でした。
あまりのショックに、すぐにオーケストラ版(カラヤン・ベルリンフィル)のLPとコンデンススコアを買い求めたほどでした。
そういえば、中1の時にBeatles の「Let It Be」買いに走ったけど、
行動パターンは変わりませんな(^^;)
このときを酒井に、あ、境に((^^;)分かる人には分かる)、私の音楽の方向性が変わった(決まった)と言えるでしょう。多分。
芽生えたあらたな欲求、そして、次のステージへ
私の中学校での吹奏楽経験はわずか1年半に満たないものでした。
「Chicago」に憧れて始めたトロンボーンでしたが、決して自分の満足する演奏が出来るようにはなれませんでした。
でもその短い期間に、私の中の音楽の畑、石がゴロゴロ、土は割れて干からびて、何も育たなそうだった畑の土は耕され、その後の音楽の芽が伸びる準備が進んでいたかも。だから、
これから先もトロンボーンを吹いて吹いてふきまくるぞ!
と、思わなかったんですよね。なぜか(^^;)
それは、求める音楽の方向が変わってきて、別の楽器に関心が湧いてきてしまっていたからなんですね。
浮気者め!
お調子者!
恥知らず!
裏切り者!
と、言われそう。きっと言われてた。
でも、レールにのって走り出した運命を止めることは出来ません。
違う方向に分岐したけど、ますますスピードを上げて転がっていくのです
(^_^)/