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[2024創作大賞応募作品応援記事]わたしはこの物語を回収したかった
第一章
わたしの試み
なんのはなしですかと初めてタグをつけて投稿したのはGW明けのこと。
その創作スタイルに、新鮮さを感じて人に伝えたらどうっていうこともないことが、ユーモラスになる感じがしてついうっかり投稿してしまった。
回収されたあと、月曜日にマガジンになっていて驚いた。その時点でマガジンは7通目、他のなんのはなしですかの投稿者さんたちは、みな大層な盛り上がりで、しかも皆さん仲が良さそう。
おまつり会場にステージがあって、紛れ込んでそのステージを眺めているような気分になった。(←レベル違いのなんのはなしですかを観客として楽しんだってことです。)マガジンはフォローしてあったので、その後、8通目、9通目、10通目は完全に読むだけのひと。
そこでムクムクと、コニシ木の子氏の狙い通り、11通目でまたなんのはなしですか、を投稿してしまう。しかもラフすぎるイラストつきの記事を。
そのクオリティを画伯と呼ぶ氏の「画伯」に対するハードルはめちゃくちゃ低く、とっても軽かった。
そんな中、上の創作大賞応募作品 3年間。no+eの街の路地裏で「なんのはなしですか」と叫んでいた。を目にすることになる。
衝撃だった。おまつりの主催者である、コニシ木の子氏が、お祭りの櫓の上から集まってきて踊るみんなを楽しそうに眺めている、そんな風に思っていたが、実はフォークダンスで氏は丁寧にお迎えした全員と次から次へと踊っていた。踊りたい人はいつでもどなたさまでもお相手いたしますと、華麗にしかし、あっさりと次へ移っていくので、そこまでの労力を払っているとは想像もしていなかった。なんのはなしですか、への恩返し、一途で熱い思いである。その思いが伝わってか、なんのはなしですか、はno+eの中でどんどん膨らんでいく。
このなんのはなしですか、は一体なんなんだろうか。そして、このままでは
コニシ木の子氏はどうなってしまうのか、なんとかしてコニシ木の子氏を止めなければ、実をいうとそれが一番感じたことだった。
私の熱を伝えるならば文章で示せ
伝わるかどうかは分からない、でもこの「なんのはなしですか」をどうにかして回収して氏に見せたい、それが、わたしの2024創作大賞応募作品「はじまりの物語」を書いたきっかけだった。すべからく、救い取るなんて、神様か仏様に任せておきましょうよ、人には無理ですよ、なんていう落ちを考えていた。氏のイラストのヘビさんがきっとなんとかしてくれる、そんな気もしていた。
しかし、執筆過程で、第二章一葉のち、名を捨て、第三章一水のモデルとなる空也上人に出会い、そんな浅はかさが打ち砕かれた。人って凄い。私の想像する”人”ってなんてちっぽけだったんだ。ときに理解を超えるようなすごい人がいて、歴史を作っていくんだ。
そのことが知れただけでも、この物語を書いてよかった、なんのはなしですか、に関われて良かった、そう思うと同時に私のコニシ木の子氏をなんとか止めようとする試みは自然消滅と相成った。
第二章
なんのはなしですかの考察ー生宣りと救済の側面
そうはいっても発見もあった。みなを引き付けてやまないこコニシ木の子氏による「なんのはなしですか」の創造は一体何なのか、それが一種、祈りのような癒しの効果があるのではないか、それが、物語の骨子となった。
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執筆途中の京都行脚で古書店で入手
図と以下抜粋紹介する書籍は、色々な宗教の垣根を越えて、祈りそのものについて考察しようというもの。基本的には祈りは三位一体の形によりその効果があるようだ。南無は衆生のことで、称名することが契機となる。そして、無量光、不生不滅の無量寿である阿弥陀が法、それを覚者が媒介することにより機と法が出会う。そして、有限が無限に面して無化されるがごとき、あるいは無限の中に完全に摂取されるごとき機回的局面が起こる。それにより諸々消失、救い取られる、そのような内容であった。
機はいつも庶生(市井の民)だが、法と覚は各宗教によって違ってくる。
これがなんのはなしですか、における、参加者とコニシ木の子氏に当てはまらないであろうか。機としては、人をえらばない、なんのはなしですか、とタグをつけて称名するだけでいい。すると、覚であるコニシ木の子氏が回収にくる。この場合のコニシ木の子氏は媒介者である。そしてマガジンという無機質な、しかしno+eという重力のない無限の中に完全に摂取される。
自分の手を離れて、しかもただ単体でふわふわと漂うわけでなくしっかり覚者が繋いでくれたという安心は癒しである。
そして、もうひとつ、空也上人の軽やかさとも共通点がある。
ひとたびも 南無阿弥陀仏という人の はちすの上にのぼらぬはなし
一度でも、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土の上にのぼらない人はいない。
ここまで、たとえ、はじめてであっても、なんのはなしですか、とタグをつけて投稿した記事は、あとはなんとかしますと、すべてマガジンに掲載をしてきた氏が重なる、その心は、その行動はやはり人の心を打ってきた。
また、空也上人の教えには、称名の他には儀礼的なものも一切なく、見物人をまえにして踊り屋の中で鉦鼓を打ち鳴らしつつ円陣を作ってみせるようになり、その後の踊り念仏、盆踊りへと影響を与えていく。
はねばはねよ おどらばおどれ 春駒の のりのみちをば しるひとぞしる
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それは、賑やかし帯をはじめ、みな自身でも楽しみ盛り上げ落着するに至る、称名するのみを超えたイベントに繋がっている点もやはり生宣りと救済の側面、それに加えて祭り、生の発露、集合的発散を感じるのであり、やはり人を引き付けてやまない根源的な理由があったとの確信に至ったのである。
第三章
験者としての個人(公人)
一方で、空也上人は、六波羅蜜・・・菩薩が涅槃に渡るために納める6つの徳(分け与える・戒律を守る・耐え忍ぶ・努力する・心を安定させる・真理を悟る)これを自らには掲げ実践していた。ここで、コニシ木の子氏のなんのはなしですかの世界をエンターテイメントとして広げるために、自ら掲げた訓示が重なる。
私は、この時に決め事をします。「努めて冷静に」「なるべく私情を挟むな」「自分がのめり込むな」「強制するな」「全て受け入れろ」「タグ以外の人様の記事には触れるな」そして「書いてくれた人に対して徹底的になれ」です。さらに、明確に「なんのはなしですか」は誰のものでもないと理解してもらうために「マガジンに自分の記事は一切入れない」と決めました。
コニシ木の子氏の創作大賞応募記事より
これはもう、氏の六波羅蜜だと思う。
さらに、空也上人は、「捨ててこそ」という奥義を大切にしていた。
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ここで、コニシ木の子氏の他の記事を紹介したい。
常々、40歳を人生の半分と計画していた私は、次の40年を違う人物で生きたいと願っていた。子供の頃からの夢だ。一回の人生で2人分生きてみたいと。それには40年で出来ないと思っていたことをしてみる。ということから変化させようと現在動いている。
その一環として、本名で生きていた他のSNSを全部辞めた。本名に飽きたのだ。飽きたというより本名はきちんと自分の中で全うしたのである。
せっかくなのでこのペンネームで次の40年を生きていくことにした。もしかしたら、60、80歳でまた本名を取り戻すかもしれない。
ちょうど1年前、昨年の7月に投稿の記事。まさかの名前を捨てていた。
そして、ホグワーツ魔法魔術学校に通った成果だと思われるが「併読」を
会得したと嬉々として語っているのである。文学が好きで文学を堪能したいという思いが氏にその術を与えたもうたのである。おそらく、唱えた呪文は「なんのはなしですか」であろう。しかし、その時点でのその呪文を使うのは、自分でセレクトした、自分のための読書のみであった。
それが一気に開花するのは、人の書いた記事を、「なんのはなしですか」のために使い始めるときだ。一年後、みごとにno+e中に大量に散りばめられた「なんのはなしですか」を高速で併読していくフェーズに突入したことは、おそらくこの感想記事をここまで読んでくださった皆さまは目の当たりにされたことでしょう。
第四章
その時が近い
現状の話を書きます。今、一人で出来るギリギリの状態です。私が削った時間だけで足りなくなってきています。「なんのはなしですか」はnoteの路地裏で流行しました。
一人で出来る限界まで持ってこれたことを誇ります。
今後ですが、二択だと思っています。大きくするか失くなるかです。ただ、ここまで出来たことを自分で笑えるので、悪くないなと思っています。結果を待ちます。
no+eという空間は、重力がないという点では、天上の世界に近い。一方、地上にあるシステムということで時の制約は受ける。またしても拙書「はじまりの物語」の設定で恐縮ではあるが、物語に出てくるヘビはふしぎな力を持っている。天上と地上の世界を行き来できる言ってみれば、テレポテーションだ。しかし天上にいる間も地上の世界は、回転を続け、次に地上に行った時には、時間が経過しており、会いたかったものにあうことがかなわない。
天上のものといえど、きっと天帝といえど、時を刻む回転をとめることができない。ここに今を生きよう、とのメッセージが浮かび上がってくる。(うそです、そこまで書ききれていません。)その一方、またno+eについて考えてみると、投稿された記事はその瞬間からもう過去となる。それをコニシ木の子氏は、つなぎ合わせて今に体現してくれる。これを可能にしてくれるのは
記したコトバの存在だ。氏はコトバを愛している。愛ゆえの行動であるが、
一方、現実の時間はなくなっていく。
誰もが口にせず、本人もここまで封印してきた、コニシ木の子氏(通称:なんのはなしです課 課長)による1人での回収業務の限界がやってくるのである。
第五章
なんのはなしですかの行く末
ここまで、氏の回収業務をみなが感謝をもって見守ってきた。
これからの「なんのはなしですか」に対して語る資格があるのだろうか、とも思うが、ここからは、回収ではなくて、わたしの「なんのはなしですか」という未来への妄想である。そう温かい気持ちでお許しください。
知らんわ、という方はどうぞここまでで。
二択だと思っています。大きくするか失くなるかです。
氏は ALL or NOTHING との立場を取っている。
そして、ALL で皆と一緒に大きくしていけないか、と夢も語っている。
それだけ「なんのはなしですか」の魅力を確信に変えたと同時にみなとの交わりでエンターテイメントを造り上げてきたという矜持が読み取れる。
本当にここまでありがとうございました。
わたしもまだまだ、なんのはなしですか、を続けたい。
できれば、交わりも持っていきたい、そんな気持ちでいっぱいです。
そのうえでの戯言として、聞いていただけるのであれば
「なんのはなしですか」の言葉、文芸としての効果は、no+eの世界にとどまらず、そして現代にとどまらず、未来に続いていく日本文学の一つの礎となる、とそんな気がしています。
ビジネス書や論文の記述については、まず結論から書きなさい、短く誤謬なく簡潔に伝えること、それが洗練された文章術だ、そのための指南書が巷に溢れている。論理を説くための言葉の使用方法である。
しかし、直接的には伝えない、結論をはっきり言わない「なんのはなしですか」には、主語を用いず、最後まで聞かないとなんのことかわからない、婉曲や比喩表現を使い秘めた思いもそっと伝える、そんな日本語の魅力、日本独自の文学を作る力を養うことができると思う。作文によって情緒を育てるとともに、読み手の想像力に任せる包容力がある。
近い将来、小学校では、なんのはなしですかで作文を作りましょう。となり
夏休みには存分に思考を働かせ、物語を創作する、そんな子どもたちが作っていく未来は、きっと優しい未来になると感じている。
なぜなら、「なんのはなしですか」は人を傷つけない優しいはなしだから。
そして、発表された、その「なんのはなしですか」の作品はそれを否定しないこと、優劣をつけないこと、それが指導方法としてセットになっていることが不可避である。
そのためには、この「なんのはなしですか」のムーブメントが広まることを切に願う。ただ、そうなると、いづれ、「なんのはなしですか」を氏の手から旅立たせる日がくるだろう。回収という行為については、もっと早いタイミングである。
それは、とても寂しいことだ。しかし、これ以上回収に限界が来ていることと、私個人が氏の回収に依存してしまうことのおそれもある。
そういうことで、わたしが投稿する記事に、なんのはなしですかのエッセンスと取り入れたときは、#コニシ木の子 といれてもいいだろうか。家に仏様を飾るように、胸に十字のロザリオをかざして祈るように、みずから#タグをつけることによって、救済者としてのコニシ木の子 を召喚するのである。
そうして投稿された記事は、もはやコメントとマガジンへの回収行為は不要である。もしかしたら、読んでくれたかもしれないな、とどこか片思いに似た気持ちで記事を投稿する。これは想像するだけでエモい行為である。(氏からしたらキモい、か)
感想文がホラー的要素を含んできた。
ちょっとここで便利な言葉
なんのはなしですか
あるいは、コニシ木の子氏は課長をやめて部長になるというのはどうだろうか。回収業務はハッシュタグは他に任せるのである。氏は部長になり、なんのはなしですか文芸部を作るのである。メンバーシップは、なんのはなしですか、を使いたい人は入れる。しかしそこに回収とマガジンは伴わない。
ジャンルごとにグループ化してもよい。そして年に1回、お祭りをするのである。なんのはなしですか大賞だ。ここで選出、優劣をつけるのは氏は好まないであろう。自薦である。自分の珠玉のなんのはなしですか、をそこにぶつける。そしてそれは書籍やマガジンにして、勝手に他から刺激を受けるのである。時期であれば、12月が締め切り。年末年始にこれはと自薦されたなんのはなしですかを読む。これは至福の時間ではなかろうか。
もちろん、部長自身も書いて載せるのである。
そして、持久力をつけて、7月no+eの創作大賞にこぞって文芸部から応募する。作家だって誕生するかもしれない。そう至らなくても、いや~、なんのはなしですか文芸部は今年も光ってましたねえなんて、編集部の声がきこえてきたらなんと愉快なことだろう。
なんのはなしですか
わたしは、なんのはなしですか のみなさんの
そんな なんのはなしですか も聞いてみたい
ほんとはずっと仲間に入りたかったのですよ。
泣けてきたのでここまでにします。
コニシ木の子さん、みなさん ありがとうございました。
(お別れの挨拶じゃないですからね。)
フルレット
追伸:ペンネーム 南野はな にしようと思ったら南野花子さんがもういらっしゃった。さすが、なんのはなしです家。もし仮に、私の書いた物語がまかり間違って本になったら、作人知らず とするのも面白い。氏が書いたのではないか、と聞かれたらなんのはなしですか、ととぼけてくれるだろう。
では本当にここまでで。長文お付き合いくださりありがとうございました。
さっそくお名前タグつけますね。