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はじまりの物語㉖ 吉祥女
朝の澄んだ空気がヒンヤリと頬と射す
一水は神鹿の杖を突きながら
谷の分岐の手前で東に位置する丘に向かって足を進める
ぽつんとひとつ民家があり
その前で薪をわる一人の男がいた
はるか西の京の都より浄土へ至る阿弥陀を唱え
巡行していたらここに至った
どこにも属さぬ根なしの游行である
阿弥陀仏を唱えさせてはいただけないか、声をかける
男はぱっと顔をあげ、
これからあさげをお供えするところです
どうぞ、ご一緒に、と中に案内してくれた
よく掃き清められてはいるが、屋敷というには小さい
菅原を名乗るものがいると聞いてやってきたのだが
間違いであろうか
有難く施しを受け、主人について尋ねてみる
名を菅原山城といった
ここの主は紀長谷雄(きのはせお)の妻であり
3人のこどもを連れて京より移り住みました
私は、その従者です
お子様たちはそれぞれ別に住まいを持たれましたが
奥様はここで過ごし、今この上の丘に眠ります
仏様を信仰しておりました
どうぞご説法をお願いいたしますと深々と頭を下げた
一水は息を飲んだ
『紀長谷雄』は道真公の門人であり文章博士である
典薬頭も務め上げ『竹取物語』の著者ではないかとも
いわれる人物である
道真公の今際に立ち会ったほどの仲であると聞く
間違いはない、ここで眠る方は道真公の奥方様だ
(そしてそれは私の血の連なる方でも、、、)
湧き上がる興奮を気取られないように
少し間をおいて、
これも何かのご縁です、ぜひ墓所にご案内下さい
阿弥陀仏の御真言に加え貴人への言葉を手向けたい
何か、逸話やお好きであったものはありましょうか
その問いかけにそうだ、と大切に棚に飾っている
一冊の書を取ってくる
私は、文字は読めません
でも奥方様は朝な夕なと手に取って大切に読み
撫でるようにまた棚に戻した後は墓所である
丘の上に立たれておりました
ぜひその中から読んで差し上げては下さいませんか
書の表には『菅家後集』と書いてある
手にすると読みこまれたと思われる頁がはらりと開く
『代月答』
蓂發桂香半且圓
三千世界一周天
天廻玄鑑雲将霽
唯是西行不左遷
蓂發(めいひら)き桂(かつら)香(かぐは)しくして
半圓(なかばまどか)ならむとす
三千世界(さむぜんせかい)一周(ひとめぐり)する天(そら)
天(てん)玄(げん)鑑(かむ)を廻(めぐ)らして
雲(くも)将(まさに)に霽(は)れむとす
唯(ただ)是(これ)西に行くなり左遷(させん)ならじ
月に問いかける人よ
私の世界では暦草が花開き、月の中の桂樹が香る
月はようやく半円である
月に問いかける人よ
私は三千大千世界の天を一巡りしているのだ。
天鏡は私をおおっていた雲をまさに取り払わんとする
月に問いかける人よ、
今この地にいるのは左遷ではない
三千大世界において
今は西に行く、そう定まっていただけなのだ
ただ、文章の天才といわれ知識が豊富なだけの人物ではない
漢詩においてもその風景、詩情、その仏教的思想の美を
寸分たがわず読取り、また自身でも詠むことができたのだ
妻もまたこれを詠み我が心情を汲み取ってくれるはず
その深きつながりに胸を突き動かされた
夫人の眠る小高い丘に案内されて
深々と礼をしたあと掌を合わせ経と詩を読誦した
自分の声が胸の内でも大きく響き熱を帯びる
私はここに来ましたよ、そういう想いも入っていた
もう一度深々と礼をしたあと顔をあげる
ふと疑問に思ったことを問うてみる
このように付き従うものもいるのに
一基の石墓に小さな五輪塔が両脇あるのみ
もとは身分のある高貴な方であったとお見受けするが
どこぞの寺院に寄せることは考えなされませんでしたか
奥方様は私が死んだのちは吉祥女としてこの丘
この場所に埋葬してほしい
囲いなどいらない
この場所からあの人を見ていたいのだ
くれぐれも頼みましたよ、との遺言でありました
そう山城は涙ぐんで答えた
どこぞを見ていた
一水は墓の横にたち、向きを変えて丘から見下ろした
山城は手をかざした
あちらです、あの渓谷の分岐点
岩崖が丘陵尾根となっている先端に寺があります
日中はあちらに詣でることが奥様の常でした
そこに行ってみよう
しばらくこの地に逗留予定である
どうか、こちらに参って経を上げさせていただくこと
お許し願いたい、とそう山城に伝えて礼をした
山城もまた手を合わせ深々と礼をするのであった