【研究】いよわ帝国に蔓延する創作について
Reference
前置き
皆様ボカロ文化を楽しんでいらっしゃるでしょうか。
今年は夏ごろにニコニコのサーバーがダウンし、今まさに復興(ボカコレ)の準備中!といったところだと思います。
夏だか秋だかが中止になったため実に1年ぶりのボカコレ、楽しみですね。次回開催は2025年2月です。
さて、ボカコレと最も関わりの強いボカロPを考えた時に誰を思い浮かべますか?
候補はたくさん挙がると思いますが、大抵そこにはいよわさんが含まれていることでしょう。ボカコレ皆勤、熱異常(2022秋)の優勝、ボカコレ開催DJイベントの参加など、いよわさんは長い間ボカコレを盛り上げつつボカコレに盛り上げられたボカロPの1人なのです。
あといよわさんがボカコレに投稿した曲が他いよわ曲と比べてほぼ伸びてるというのもあります。
ということでこのnoteでは私の推しであるいよわさんが成し遂げてきたこと、そしていよわさんを取り巻く文化について書き残しておこうと思います。
【⚠︎注意⚠︎】
・過度にいよわさんに肯定的な内容と、過度に否定的な内容が含まれます。
・保全(@iyomizudera)コミュニティおよび純セメスに関する内容が含まれます。
・曲考察よりも「いよわさんの」考察としての内容が強いです。
上記3つに抵抗のある方はすぐに離れてください。
ライト層における創作
便宜上、いよわ界隈の方々を「ライト層」と 「ヘビー層」で区分けすることにします。以下はその定義です。
ライト層の方々が楽しんでいるのは他でもないいよわさんの一次創作、そして大きなファン・絵師の方々による二次創作です。極めて健全ですね。
ヘビー層における創作
ヘビー層において楽しまれているのは、主に純セメス……界隈内の方なら説明は不要でしょうが、危険思想の持ち主で@iyomizuderaの運営者による、二次創作です。
(いよわ曲を完全に聴いてない訳ではありません)
@iyomizuderaとは何か?
いよわ曲考察を目的とした、いよわさん非公認の組織であると純セメスは定義しています。
しかし実情はただの考察組織とは異なっており、歴代ボカコレやニコニコアワードの際には大なり小なり工作を行い、いよわさんの順位を上げるため団結していました。
そこでの考察はかなり歪んだものであり、例えばVOCALOIDが(いよわさんの表記した)歌詞と異なる発音をしている、いよわさんが故意にそうさせていると定義した「落涙読み」を本気で信じています。
脚そ考、公式が勝手に言ってるだけ論を平然と振りかざすようなものであり、これだけ聞くといよわさん自体を蔑ろにしているだけのように思えます。しかし実際はどうなのでしょうか。
実際の純セメスの記事を見ていきましょう。
創作者:純セメス
現在、@iyomizuderaの考察には箝口令が敷かれています(かなり漏洩してはいますが)。そのため本記事では具体的な言及はなるべく控えます。気になった方のみご自身の目で確かめてみて下さい。
唯一全員が観測できるのははてなブログにある記事くらいですが、これは大きく2つの面に分かれていて、
いよわさんの純粋なファンからすると不快なもの、半ばアンチと化している面と、
いよわさんへの愛または深い理解を覗かせるような、純粋なファンとしての面です。
この表裏一体な2つの面が、純セメスの記事への適切な解釈を複雑にしています。片面だけ切り取って批判するのは少なくとも適切とは言えないでしょう。よって両面が分かるような画像を上に載せました。
(私自身純セメスの考えには納得する部分とそうでない部分があります。以下、はてなブログの記事を引用することがありますが、特に言及がない限り前者の部分を切り取っていると考えてください。)
次に@iyomizuderaの定義をもう少し詳しく見てみましょう。
いよわさんをただ信仰するわけでも、拒絶するわけでもない。そもそもファンかアンチかの二項対立で語れるものではない。そして「日本いよわ学会」という別名を持つだけあって、いよわさんを一種の概念として捉えている。生きるためにいよわさんを研究している。
私は@iyomizuderaをそのように認識しています。
窮理学
さて、ここまで純セメスの考察を見てきたわけですが、ひたすら柔和が求められる現代にあれほどいよわさんへの不忠が含まれ、もはや考察の体をなしていない考察は、普通に考えればファンからしても受け入れ難いものでしょう。
何故純セメスの話が信じられたのでしょうか?
それは本当だとしたら理解できないものに説明がつくからです。
生まれた頃にはすでに天と地があったように、私たちにはいよわさんの福音が与えられていました。そこに理論を立て、どんな手段を使ってでも説明しようとしたのが純セメスです。
「落涙読み」など端から真偽が怪しいものも含め、純セメスの考察には一貫した軸があり、時に難解ないよわ曲への理解が可能になります。純セメスが考察を書き始めたのはIMAWANOKIWAからですが、当時はそもそもいよわさんに特化した考察者が多分今ほど多くなかったのも相まって、いよわファンの思考を独占しました。
不可逆的な損失
さて、純セメスに触れた人にはどのような影響が発生するのでしょうか?
先に結論を言うと、純セメスに当てられた人間にはセンシティブな話題への抵抗値が著しく低くなる、という話をします。
センシティブというのはR-18ではなくR-18Gの方で、暴力・精神病・生命倫理………特に誰かの死に対する拒否感が小さくなるという話です。
いよわ曲は死ネタが多いため、実は同じ性質を持っていると考えることもできます。しかし、純セメスのそれはいよわ曲とは一線を画すものです。気になる方は@iyomizuderaを訪れると分かりますが、推奨はしません。
例えばこれは私の鍵垢のツイートですが、
(微閲覧注意、序盤の純セメス考察を見た人なら今更でしょうが)
これは三十九糎によりいよわ自殺説を考えていた頃のツイートです。
(↑改めて見ると日本語下手すぎるだろこいつ………)
当たり前ですが全て私の妄想・妄言であり、いよわさんは自殺などしていませんでした。なぜこのnoteを出したかというと、それは私の中のいよわさんが自殺を選んでいたからに他なりません。
というのも、いよわさんはさよならジャックポット(さよジャ)投稿のタイミングで一度引退を考えており、さらに3rdアルバムを出す直前までスランプだったと明かしています。そんな中で発表された、「葬儀」がテーマの三十九糎。これを聴いて、私はこのように思考しました。
当時、私の脳内のいよわさんは、自身の作品の至らなさに悲観し、作品を作っても投稿する気が起きず、今まで頼みの綱だった創作を奪われ、生きる気力を失くし、苦しみ、そして………自殺しました。
繰り返しますが全て私の妄想です。事実は何一つありません。いよわさんは生きており、私も安堵しました。
このように、ある程度その人にとって信頼できるソースが揃った時、それがいよわさんを無下にする説であっても発露することを躊躇わなくなるのです。
似たような話は案外よく見られます。
いよわさんと他ボカロPとの絡みを考えてみたり、私とは異なりボカコレ予想を希望的観測で行ってみたり。
それらとの大きな違いは前述の通り「センシティブな話題への抵抗が大きいかどうか」だと思っています。仮にいよわさんが死んだとしても納得してしまうのです。
他人の話ですが「死んで欲しい」に到達した人を私は見たことがあります。当然そこには(いよわさんが大好き故の)理論がありますが、ファンに死を願われることは他のボカロPではまず無いでしょう。
これこそが@iyomizuderaを受け入れた代償、いよわ界隈が気持ち悪がられる所以です。
純セメスの考察に触れることによって、いよわさんを、人を傷つけることへの抵抗が無くなっていきます。「どうせ事実ではないのだから」と、人を弄び、改変し、ときに中傷することを少しも躊躇しなくなります。そうして「機械論的いよわ観」は蔓延するのです。
純セメス未満の冷笑
誤解を生じさせる前に言っておきますが、下層は個人への誹謗中傷が誰彼構わず飛び交うような殺伐とした空気感では全くありません。例えば「冷笑」と呼ばれるような、もはや相手を傷つけて快楽を得ることが目的と化した言葉はほとんど見られません。
冷笑が必ずしも理知的ではないのは自明の理ですが、いよわ界隈で嫌われるのは、理論の通らない(反論の余地がある)考察により誰かを中傷することです。理論が通っていない時点で、それは純セメス未満と言えるでしょう。相手にもされません。
落涙読み等の真偽不明なものを証拠にしてはいますが、考察の材料全てをいよわさんが出したものから読み取っているという点で純セメスの考察は理論が通っていました。
いよわさんを批判すること自体を咎められないのは、それが愛ゆえのものだからです。目を凝らして推しを観察しているが故に色々な欠点が見えてくるというのは、自然の摂理で避けようがありません。
多くの場合ファンにできることは「見逃す」「見ないふりをする」ことだけです。例えば好きな曲に直して欲しい箇所を見つけたとして、その曲をすぐには嫌いにならないでしょう。まして作者に『ここ直してください!』なんて言う阿呆はそうそういません。
しかし純セメスに当てられた人間はそうはならないはずです。短所を見逃さず長所すら曲解する、と聞くと難癖おじさんにも見えてきますが、それらとは違い極めて純真無垢な想いで行動しています。わかってますよ感が出したいのではなく、ただ思ったことをそのまま出しているだけなのです。それがヘイトスピーチだというだけです。
批判を躊躇わない姿勢は無色透名祭II、電脳学級会で会いましょうの時に顕著でした。
気になる方は@iyomizuderaの2023年11月6日のツイートを見てください。
コマンド置いとくので
from:@iyomizudera until:2023-11-7
創作者:いよわ
さて、ここまで純セメスの話を続けてきましたが、実際なぜこうなってしまったのでしょう。どうして@iyomizuderaは歪んだ考察の場になってしまったのでしょうか。
そしていよわさんは今まで何を成し遂げてきたのでしょうか。いよわさんは何を考え何を認識してきたのでしょうか。
純セメスがある時期までごく普通のファンだったことは有名な話です。いえ当時から露悪的な部分はあったらしいのですが………
それでも純セメスがいよわさんを知ってから今日までの間に何かしらの境目があったはずです。
ああなったのはいよわさんの影響です。
この問題を語るには、「いよわ化」についての研究が必要になります。古来から純セメスにより無色透名祭においていよわ模倣楽曲でバズを狙う手法として提唱されていた概念であり、
直近ではユリイカいよわ特集にもいよわ化に関する論考が載せられていました(もちろん、純セメスとは異なるアプローチですが)。
いよわ化から見えるいよわ曲の性質とは何でしょうか。
いよわ曲の寓話的性格 ①概略
いよわ曲は基本的に「いよわガールズ」という登場人物を通して物語が進行します。あくまでガールズの物語であって、本来の楽しみ方はかわいらしいガールズを俯瞰して愛でることのように思えます。
しかし、1000年生きてる(生き汚く生きて何かを創れ)に代表されるように、いよわ曲にはときおり作者(=いよわさん)のメッセージが含まれることがあります。これが「いよわ化」において大きな役割を果たしています。
興味深いのは、いよわさん自身はこれを自身のメッセージだと思っていないことです。
前述のさよジャ投稿キャスでいよわさんは「(さよジャで)初めて自分の気持ちちょっと入っちゃって」と語っています。すなわち、少なくともさよジャ以前に語られているメッセージはいよわさんが思う、他人(ガールズ)がこの状況で最も言いそうなことであり、いよわさんの主観による通説ということになります。
音楽とストーリーを通じてメッセージを伝えるという点で、いよわ曲とは寓話であると私は考えます。
これだけだと何を言っているかさっぱりだと思いますので、分かりやすい例を2曲挙げて考えていきましょう。
ディアーマイウィッチクラフトと一千光年です。
いよわ曲の寓話的性格 ②ディアマイ編
さよならジャックポット以前の曲です。
もはや説明するまでもないですが、最も寓話的性格が伝わりやすい曲のひとつです。
失ったものが戻ってくるとして、心の中に「また失ってもいいや」という思いが生まれ虚しいだけであるならば、それは失った苦しみからの解放とは言えない……
内容自体の是非は置いといて、確かにこれは社会一般の通念といえるかもしれません。多くの人から共感を得られる物です。しかし、聞き手はこれを他でもないいよわさんからのメッセージとして受け取るでしょう。
物語という隠れ蓑を用い、いよわさんは"少なくとも曲中で"絶大な説得力を持つと言うことができます。
本来はいよわガールズであるまほちゃんとそのドッペルゲンガー(イマジナリーフレンドのような何か?)との物語であるはずが、間接的にいよわさん自身の考えを、通説として聞き手は摂取するのです。
いよわ曲の寓話的性格 ③一千光年編
先ほど"少なくとも曲中で"と書きましたが、それが見かけ上曲の外へとまろび出た例です。
一千光年を語るうえで必要な知識は多いですが、まずこれらの歌詞がボカロ生死論とボカロ踏み台論を参照していることは明らかです。
次に、一千光年はボカコレ2023春TOP100参加曲ですが、そこまでの歩みがまとめられている素晴らしい動画があるので載せておきます。
要するに、いよわさんはボカコレというリスナーとPの距離が最も近い投稿祭で成り上がってきました。
いよわさんはボカロリスナーにとって身近な有名ボカロP、かつニコニコとVOCALOIDへの愛がある人と認識されていた と判断できます。当時は実際その通りだったと思います。
そんな中投稿された、さながらマジミラテーマソングのようなVOCALOIDの賛美歌。そして音楽を通じた、ボカロリスナー:いよわとしての意見表明、ボカロ生死論・踏み台論反駁。
そこには絶大な説得力が存在します。なぜなら、それは一千光年の中だけの話ではないからです。ディアマイの例では限定された場での「答え」でしたが、一千光年で語られた内容はボカロオタクの脳を灼き焦がし、絶対的かつ普遍的な「答え」を界隈全体に提示して過去を上書き保存してしまいました。
(ささみにくさんは私が敬愛している光のボカロオタクの方なのですが、普段のツイートからも初音ミク含むVOCALOIDへの愛が溢れていて、それ故に上記ツイートを見た時は驚きました。
「1選」は、ここでは「人生で1番好きな曲」という意味で使われています。ささみにくさんに限った話ではないのですが、いよわさんはこのように今までの過去を塗り替え………いえ、実の所塗り替えてなどいません。
一千光年はボカロ文化のこれまでを内包した概念であり、リスペクトを以てそれらをいよわさんなりに総括しました。過去を消し去ったわけでも、否定したわけでもありません。)
以上から分かるのは、いよわ曲及びいよわさんには視聴者の思考をうわがきする性質があるということです。 これはユリイカにも書かれていますが、いよわガールズやいよわさん自身の情動を理解したいという、極めて純真無垢な想いが帰結するところです。
「終わった」曲
閑話休題、いよわさんがにじさんじの「七次元生徒会」というユニットに提供した「刹那の正体」という楽曲をご存知でしょうか?
おそらく知らない方もいるかもしれません。何せこの曲はいよわさんが一度も言及していないのです。
にじフェス2023ライブビデオ公開の時も。
そこから約6ヶ月後の公式MV披露の時も。
そして現在に至るまで、いよわさんは全てのメディアにおいて一度も言及していません。
その後月ノ美兎さんへの楽曲提供もあったので、にじさんじとの関係が悪化したとは考えにくいです。すなわち、単に忘れているとしか考えられません。前例があるからです。
思うに、刹那の正体はいよわさんの中でもう役目を終えた曲、終わった曲なのです。
いよわさんが過去曲に言及等をしたことってありましたか?実はあった(後述)んですが、それはつい最近になってからのことです。2022年以前という条件を付ければ、おそらく大抵はいよわガールズへの言及に留まっています。曲の中身について触れられることはそう多くありません。
(なので私はいよわ曲の「骨牌抜き」をあんまり信用していません。ただ考察を楽にする方法としては良いと思います。)
ちなみに、刹那の正体について知っている人は大抵iyowa.jpによるものではありませんか?私が思うにiyowa.jpには、創立者であるなもみさんが意図したかは不明ですが、提供曲への責任を放棄したいよわさんの尻拭い的な性質があると思います。
いよわさんが過去曲のいよわガールズを主役として引っ張り出し、あまつさえそのガールズのために新曲を作るなんてことが、今まであったでしょうか?
ありました。映画、陽だまり、卒業におけるパジャミィです。実は今年になってから状況はかなり変化しました。
黄金数Remixは原曲にキックがなさすぎたから作ったという発言もあり、こうして見ると今のいよわさんは過去曲もきちんと省みているように思えます。
推測になってしまいますが、映画ひ卒業直前のスランプの時期にいろいろ試してみて、その中で自らの過去曲にも触れたんじゃないでしょうか。
ただ結果的にいよわさんをスランプから救ったのは他ボカロPの曲であり、「キックがなさすぎた」という短所に目が向いている時点でむしろスランプを悪化させていたような気もしますが。
とにかくこのようにいよわさんは変容しました。これに関してはまた後で。
賽を取れば攤打たん事を思ふ
いよわ化に話を戻しましょう。
(この部分、うまく説明ができた自信がありません。理論を気にしなければ太字のところだけ読んで頂ければ理解はできると思います。申し訳ない。)
創作とは作者の生き写しです。それは一挙一動、どこにインクを置くかどんな歌詞を入れるか、の組み合わせにより形作られます。よって作者の思考の全てがそっくりそのまま現れます…………というのは、部分的に誤りだと私は考えます。
noteなどを書いている人は共感してくれるかもしれませんが、稀に「考えてること文章にまとめたら今まで思いつかなかったようなことがめちゃくちゃ出てくる」という経験をします。
我々の思考は網羅的ではありません。思考=頭の中だけで分かっていることもあれば、筆を執るとか指を執るとかで初めて分かることもあります。自分自身の全てを理解しきっている人間などいません。
重要なのは「作者は創作物に現れる全ての要素を思考=想定しているわけではない」ということです。作品の要素一つ一つについて、それは作者が初めから意図していたものではないという可能性が存在します。ある種の脚そ考です。
いよわさんの音楽の作り方を思い出して欲しいのですが、「ピアノを弾いている時に偶然隣の鍵に手が触れて、それが良かったら採用する」という方式だったはずです。時にいよわさんは衝動に身を任せて曲を作ります。
(それはMVや歌詞にも適用される、という話をしています)
本来、そのような齟齬を通じて作者は自分への理解を深めるという過程が起こるはずです。自己外化と呼ばれ、「この時の自分はそんなことを考えていたんだ」といった感じの。
しかし、先程書いたようにいよわさんは振り返りをしません。過去作で何をして伸びたか等の商業的利益へ向かう反省をしてないというのは、同じ曲調を擦ることもせず(最近は微妙ですが)MVに入れられるアニメーションが曲ごとに異なることからもなんとなく分かります。
そこには「(過去作を年月が経ってから見て)ああ自分はこんな風に考えてたんだ〜」というような、作品を通した自己理解の過程が存在し得ません。つまりいよわさんは、自身のことにそれほど詳しくないと言えます。
長くなりましたが、結論としてはいよわさんの作品・言葉を全て吸収した他人はいよわ以上のいよわなのではないか?ということです。
いよわさんの思考を模倣し、第二第三のいよわさんを作り上げるのです。
何のために?
学問とは再現性のあるプロセスです。理論さえ分かれば同じ結果が得られるようにできています。
いよわ化の真髄は、考察を楽にすることにあると思います。
「いよわ化」応用編
せっかくなのでいよわ化を使って何か考えてみましょう。といってもこれは道具でなく習慣であるので、すぐに使えるものではありません。日々の気づきとして現れるものです。
つまり今から書くのは私の気づきです。いよわ化を患って暮らしてきた人間のふとした発見です。
私はずっとおかしいと思っていました。
いよわさんから学んだのは、「遺すこと」の素晴らしさでした。それは1000年生きてるであり、わたしのヘリテージです。
遺すことだけ考えていれば、賞レースとか、酷評とか、そういう喧騒に惑わされることなく、ずっと幸せでいられるはずで、そんないよわさんが好きで、それは作詞作曲動画全てを1人で完結させられるいよわさんにしかできないことでした。今もこの気持ちは変わっていません。
ですが、シンプルにいよわさんの気持ちは"理想的"ではありませんでした……いえ、正確には理想ではなく空想です。他者に関わることなくいよわさんが生きていれば、Tiktokと共にIMAWANOKIWAはオワコンと化していたでしょう。
ですが私の覚えた違和感はそちらではない。
ボカコレ2022秋の時、忘れもしない、熱異常が優勝した時。いよわさんは泣いていました。今ではみさいるさんが撮った動画を残すのみとなりましたが、私はそれを聞いていました。そしていよわさんは「恩返しをしないといけない」と繰り返していました。
いよわさんの原動力とは何だったのですか?
しばらくして、私は阿修さんという推しと出会えました。何故推し始めたのかも当時は分からず、何か漠然としたモノを感じて、魅力的に思っていました。
理由は割とすぐ分かりました。阿修さんはいよわさんとはるまきごはんさんが好きだったのです。
そんな中投稿されたのが合成するミライでした。
この頃には阿修さんその人自身をとても好きになっており、力強い意思表明に私は"破壊"されました。noteを書くくらいには。
「もう一度始める創造 この嘘で描いた理想像でも誰かに明日が届くのなら 今はそれだけで それだけでいいからさ」
美しい歌詞です。
約1ヶ月後のボカニコ2024。
いよわさんは、貴方はDJで合成するミライを流しました。
何を思って流したのかは定かではありませんが、私には"破壊"の跡が見えたように感じました。
これはまだ仮説として論じるにも満たない、信憑性のまるでない私のふとした発見です。
思うに貴方は刻みたかったのではありませんか?「記録に」ではなく「誰かに」です。
元はと言えば「誰かに幸せを与えたい」「誰かと幸せを共有したい」と『何かを遺したい』の混交。
他者への承認欲求にも似た支配欲。
自身が良いと思ったものが未来永劫受け継がれるよう、誰かに託したかったのではありませんか?
それは呪縛。それはとこしえ。一瞬の輝きではなく1000年続く祈り。
「誰か」というのは、まず他ならぬリスナーに。同じ時代を生きる創作者に。
そしてそれと同じくらい、輝かしい生き様を見せ続けるボーカロイドたちに。
可不、星界、裏命、花隈千冬、Solaria………
そして足立レイに。
from:@iyomizudera レイ
そこから生まれた創作物によって、
いよわ帝国が生まれたのではありませんか?
いよわ帝国─創作物
ファン見てない論再考(前編)
(今から書く内容は4〜6ヶ月くらい前に1度noteに書こうとしたものでしたが、出さないことになりました。鍵垢で繋がってる人たちに見せたところボロカスに叩かれたからです。)
(おそらく単にいよわさんを批判する内容として捉えられたからだと思います。なのでこれを読んでる皆様は「筆者はこれを最大級の賛辞または賞賛と批判のどちらでもない物と思っている」ことをどうか覚えておいてください。)
さて、純セメスがどうしていよわさんへ暴言を吐くようになったかの話でしたね。
勿論はっきりとは分かりません。私は純セメスではないので。
しかし、これにはいよわ化の影響が少なからずあったように思えます。いよわさんを考察するため研究するうちに、いよわさんの持つ攻撃性までコピーしてしまった。それを知ってしまった。それが純セメスの元々持ち合わせていた露悪的な性格と同化してしまった。チープな響きですがこんな感じの事が起こっていたのではないか?と推測しています。まあ外れててもいいんですが……
いよわ化は「自身をいよわ化することで再現性のあるプロセスを構築する」の他に、もうひとつ活用法があります。実はいよわ化応用編の項でも使っていました。
「いよわ化した他人を眺めることで、深いいよわさんの理解を得る」というものです。
これに則って純セメスの性格を考え直してみましょう。いよわさんに応用できるものはこの中にあるでしょうか?
①ファンとアンチの両面を持つ
②一貫した軸がある
③死などへの抵抗が小さい
④「対象」を蔑ろにする
①は……ファン故に推しの嫌な部分が見えるのは多々ありますし、②も合理的な思考を目指せば自然と近づいていく所です。これらは一般論として珍しくないものです。
③、これはいよわ曲の死ネタ率を見れば妥当だと思います。あと純セメスに限った話でもないです、皆さんもそうは思いませんか?
ただ単純にいよわさんを嗜めば「そうなる」、純セメスにより加速するというだけで、応用と言うには順序が逆です。面白いことに、「死」を「特異なもの」に置き換えればいよわさんの前衛的な傾向の説明にもなります。
では④はどうか?
はい。その通りです。これはいよわさんに重ねられます。
(…………待ってください、帰らないで、これはいよわさんの批判じゃないって言ったじゃないですか、話を聞いてください続きがあるんです。)
まず言い方が良くないですね。"蔑ろ"は純セメスに対するマイナスイメージをそのまま引っ張ってきた結果です。もうちょっと実践的な言葉にしましょう。
「いよわさんは、ファンを見ていない」
いいえ、そうではない。
「いよわさんは、ファンからの過干渉を全て防ぐための思考体系を見つけた」
こういうことでしょう。
ファン見てない論再考(後編)
いよわ界隈の皆さん、いよわさんとの距離を感じることはありませんか?
鍵垢の人には伝わるか分かりませんが、軽率にボカロPとかの名前を入れてツイートするとエゴサで見つかることがあります。それはボカロPを身近な存在にさせると共に、「監視されている」という危機感を産む可能性も孕んでいます。
もちろんボカロPすべてが行っているわけがなく、有名Pはそもそもツイート数が多すぎてまず追いきれないでしょう。いよわさんもこの括りです。
1度「いよわ」「いよわさん」でパブサしてみてください、多分継続しようとしても6ヶ月くらいで音を上げます。
が、ファン(レビュアー)の声を聞くのはどう考えても必要です。その点でユリイカは最良でした。しかしユリイカといえどカバーしきれない部分はあり、それが時に「距離を感じる」理由になります。
例えばねむるピンクノイズの再販要求。例えばグッズ販売要求。ただボーマスでいよわさんと会いたいってだけの願いでさえ。
(過去の私はこの部分を取って「ファン見てない論」として片付けようとしていました。しかしそれはあまりにも本質的でなく、他に目を向けるべき事項があるはずです。)
往々にして強大な力には代償がつきものですが、であれば代償から見えてくるものもきっとあります。
いよわさんへ向けた声は虚しくも届かない、その代わり純セメスや他の人の暴言もおそらく届いていません。純セメスが「路傍の石」と表現していたように。
それはいよわさんの精神衛生を保つのと同時に、いよわ界隈において表現の自由を過剰なほどに確保しています。後者は本人はそこまで考えていないと思いますが。
↓自由が制限されたのってこの時くらいですから。
そして「ファンからの過干渉を全て防ぐための思考形態」が何かと言うと……
「ただただクリエイターと創作物を見る」です。
純セメスが提唱した【夜凪】【百城】【麻薬】【無縫】そしてそれらを兼ねる【AR】は若干胡散臭いですが手がかりになり得ます。これらは創作者の分類法です。
いよわさん(闇の帝王)と原口沙輔さん(サスケェ・・・)はこれら全てにおいて部類の強さを誇る【AR(オールラウンド)】なのだそうです。そしていよわさんの作風は「クリエイター向け」だと。
確かに、例えば1000年生きてるはモロにそうです。それどころかいよわ曲の主題が「リスナーへの何かしらの干渉」だったことは多分ないです。強いて言うなら一千光年が「全てのボカロオタク」に向けられていたくらいです。
【麻薬】はともかく【無縫】の「ただ己の好きなものを作る」に関してはポプリさんキャス等で長い間いよわさんから語られています。
@iyomizuderaにおけるSideの話を知っている方はもっと分かり易いと思います。私は上記の分類法をあんまりよくわかってませんが、間違いなく【夜凪】でしょうから。
もう1つ、いよわさんの変容により『答え合わせの拒否』または『創作の促進』とも呼べる現象が起こっています。
「水死体にもどらないで(水死体)」と「地球の裏」を比較してみます。
投稿日:2018/12/14(6周年!)
水死体は、MVの時点で考察を前提とした作品であることが分かります。それは文字化けの存在です。文字化けはただ解読すればいいだけであり、その内容は一意的に定まります。
同時期のいよわ曲は比較的ストーリー性があって分かりやすいものが多く、ツイキャスやpixivFANBOXで答え合わせが行われることもあったようです。
では地球の裏はどうか?
投稿日:2022/11/29(2周年!)
地球の裏や同時期の作品は考察の材料が極端に少なくなっています。水死体と同じく1枚絵を基調としたMVですが、地球の裏には文字化け等の代わりに4枚前後の差分が用意されているのみです。
その上で歌詞がこれなので……
教養のある考察者の方々には全て理解できるのかもしれませんが、まず初見ではほとんどのリスナーはまるきり理解不能でしょう。これが『答え合わせの拒否』です。「完全な答え合わせ」のタネはいよわさんが秘めたままで、それに対し水死体の時のいよわさんは「絶対に言わなきゃ分からない情報はこっちで補足しよう」というスタンスでした(ポプリさんの「駆けない」など)。
しかしよく考えてみると使われている語彙はどれも平易なものです。つまり「図鑑から知識を得て人間世界に溶け込もうとしてるんじゃない?」「いや創作の苦しみを歌ったものだ」「さよちゃんジャックにコイン貸してあげて」「猫耳かわい〜♡」くらいの感想は許されているのです。この猶予は水死体にはありませんでした。他ボカロPと比べても珍しいくらいに自由です。
大前提ですが考察とは二次創作です。考察によりリスナーは(二次)創作者へ昇華されますが、そのためにいよわさんは自由で開かれた考察活動を促したと解釈できます。これが『創作の促進』です。
実際のところ、いよわ界隈で目指されていたのは「完全な答え合わせ」だったように見えるので、とても残酷なことだと思いますが。
これまでの話をまとめると、
いよわさんはリスナーからの心無い言葉に惑わされることなく創作を続け、数字も気に留めずただ自身の好きな創作物を見つめ続けることができた。
我々リスナーはいよわさんの作品を通じて創作者になることが、他ボカロPと比べても異常な程に許されている。
ということになります。
(【百城】にはリスナーへ向けた思考もあるだろ!とも思いますが、まず純セメスが何を思って【AR】に分類したのか私は分からないこと、次にいよわさんが見てたのは典型的なリスナーだったのかもしれないということがあります。例えば「ピアノがやばい」とか「不協和音がすごい」とかのよくある感想です。それしか目に入ってない可能性もあるということです。だからユリイカは本当に大きい。)
(というか【百城】の要素ほんとにどこ……?誰かわかる方いれば教えてください。)
ついでにここから言えることが1つあります。
これは無い。
創作関連の曲は増えたか?上位30×2版
話変わって、最近なんか創作賛歌多くない???と思ったので超簡単かつちょっと主観的ではありますが統計を取ってきました。
ボカコレ(2020冬と2024冬)参加作品における「創作関連曲」(今適当に名付けました)の数を調べたものです。
・ボカコレ全体での傾向を調べるため、無作為抽出を行ったのち調査する
・そういった曲に対する評価がどうなっているか調べるために、ボカコレ上位入賞作品を調査する
この2つの軸で進めていきます。
上の記事では前者の調査を行いました。レギュレーションに関して応用できる部分はここから応用します。
なるべく人から見て分かりやすいように定義をしたつもりですが、とにかくこの定義に則って調査を行った結果、無作為抽出版の方では
2020冬:7曲/60曲に対して
2024冬:6曲/60曲という結果が出て、
投稿作品数自体はあまり変わってないという結論が出せました。(あくまで主観的な調査であることをお忘れなく!再考&再走待ってます)
では後者の調査ではどうかというと……結論から言うと、20冬に対して24冬ではかなり増えていました。
まずレギュレーションですが、以下の通りとなります。
レギュレーション2-β
ボカコレ2020冬、2024冬のTOP100・ルーキーランキングにおける上位30位までのオリジナル曲を対象とする。(曲数は20冬が51曲、24冬が60曲です。)
下に創作関連曲と判断した曲をまとめたプレイリストを貼っておきます。
ということで結果ですが…………
2020冬:6曲/51曲(11.8%)
ルーキー:3曲 TOP30:3曲
2024冬:15曲/60曲(25.0%)
ルーキー:8曲 TOP100:7曲
増えすぎでは!??!?割合が約2倍になっています。
もともと信憑性の高くない統計とはいえ何かしら原因を探るべきでしょう。ということで次からは、ボカコレを"破壊"したいよわさんについての話です。
「覚悟」の場
ボカコレが段々と界隈に定着し始めていたであろう2022春(4回目)(これも主観)以降のボカコレ優勝曲について簡単におさらいします。以下、敬称略とします。
2022春──まにまに/r-906
創作者として自らを貫き通し理想を追い求める曲だと思っています。創作者は狂っている。
2022秋──熱異常/いよわ
上で貼った号泣が全てを語っていますが、相当気持ちが篭っていた作品なのだろうと思います。
2023春──新人類一千光年/いよわ
………
2023夏──リレイアウター/稲葉曇
極めて衝動的で、それ故に美しく重く絶大な愛の表明です。稲葉さんはボカコレ2023春を見てたっぽいです。
2024冬──イガク/原口沙輔
原口沙輔さんの好きな文化であるが故に嫌な部分が見え、耐えきれなくなったのだと思います(間奏での暗号を参照)。
お分かり頂けましたか?
どれもボカロP自身の極めて強い感情や意志、信念が含まれた曲です。私はそのような情動を「覚悟」と呼んでいます。
優勝曲と他の上位の曲の両方で、作者の覚悟を表す曲(∋創作関連曲)が評価されるという傾向が現れた。界隈全体がそのような曲を作るために動き始めた。
ボカコレは、「覚悟」の場になってしまいました。
(ところで、上に挙げた曲はすべてTOP100の優勝曲ですが、ルーキーはストーリーテリングが優勝することが多いです。が、創作関連曲の流行はルーキーでも起こってるはずなので……これは本当に分かりません。)
いよわ帝国
そういえば上に挙げた優勝曲の作者の方々はみんな仲良しですよね。「覚悟」という観点で見れば他にも椎乃味醂さんなど素晴らしい覚悟を見せている方はいますし、それぞれ仲が良いように見えます。多分リスペクトで繋げられた仲なのだと思います。
リスペクトというのは柔和な姿勢です。心の中の軽微な嫉妬や軽蔑を抑え込むための思考であり、冷笑の対極です。
前述の「見逃す」こともその一つで、これにより全てを愛し、先入観を排除し、冷笑より穏やかな過程を経て本質的な思考へ向かうことができます。その流れはボカロPに留まらず、リスナーの側にも浸透していきます。
ちなみに純セメスはこんな予言を残していました。
どうしようもないので内通してしまいますが、@iyomizuderaでは【いよわ帝国】がボカコレ2023春の時点で、ある曲の投稿を以て成立したとされています。
「リスペクトを大事にする」価値観を基準とし、馴れ合いが蔓延る世界が訪れてしまったと言うのです。それはいよわさんが原因となって興ったものであり、「不可避のクソ」だと。
ちなみにきっかけとなった曲ですが、(主観ですが)創作関連曲でした。「覚悟」とかリスペクトとかは前述の通り作者の気持ちが入るもの、コンテクストのみを評価するもの、現代アートです。
と聞いて、物知りないよわ界隈の人は何か思い出すことがあるかもしれません。
いよわさんは元々コンテクストが評価されるのを拒否していたはずななのです。
1000年生きてるの頃から変容していたとも言えるのですが、結果的に「いよわさんが愛した土地に、自身が嫌った場を築き上げてしまった」という状況が発生しているのです。
捻れたいよわ帝国
今になっていよわ帝国と聞いてもピンと来ない人もいるかもしれません。ボカロP全員が全員リスペクトを大切にしているわけではなく、つい最近もジヲさんのnoteへの反応で、冷静に見守る方と 熱量や愛が大きいあまり批判してしまう方に分かれていました。
この齟齬は何故かというと、いよわ帝国は崩壊したからです。
そもそもいよわ帝国は「いよわがTwitterにおけるインフルエンサーの立場を意識的に降りない限り」という条件付きです。しかし実際はどうでしょう?2023年6月くらいからいよわさんはTwitterでほぼツイートをしなくなっています。加えてスランプに入り、曲の投稿も激減してしまいました。
いよわさんは思想の発露を唐突にに止めてしまいました。原因は分かりませんが、私はボカコレ2023春だと推測します。
ボカコレ2023春の上位層は客観的に見て本当に酷かった。Adoコレに始まりシチューうどん銭湯などボカコレの存在意義を疑わせる事案が多数発生しました。
そして何より一千光年が、組織票という無意味なものに負けたのはこの上ない損失でした。一千光年も工作してたのはそうですが、にしてもスターダストメドレーに同じことが言えます。
ボカロを愛するニコニコというイメージはクラウドナインにより粉々にされ、その歪みに光は吸い込まれ、打ち砕かれてしまいました。今の一千光年の人気はその破片をかき集めるために努力した沢山の方々によるものです。
それはさておき、要するにいよわ帝国は成立と同時に崩壊しました。@iyomizuderaの有志がいよわさんの支配を予測するのに対し、いよわさんは既にその座を放り捨てているので齟齬が発生し、捻れてしまいました。
(だから電脳学級会が叩かれたのかもしれません。)
これからの私たち
今まで書いてきたのは、全て過去の時点での話です。いよわさんを取り巻く環境には様々な変容が起きました。
まず、「終わった」曲の項でも話しましたがいよわさんが過去曲を見返したのではないか?という推測です。そしてスランプをおそらく克服したことも。
直近のボカコレ2024冬と2023夏でいよわさんはRemixで参加し、どちらも1位を獲っています。
一千光年を出した後にこのように語り、それ以前から「覚悟」を見せつけてきたいよわさんが、です。これはスランプだったことが原因であり、それを受け入れられたのならそろそろもう一度「覚悟」を見せる…というのは私の願望です。しかし私だけの話では決して無いはずです。
次にボカロ界隈全体を通して。
「覚悟」の場になったボカコレ、私はいちボカロリスナーとして結構好きです。それ以前と比べてコンテクストという要素が付け足された形なので単純に一曲一曲に内在する価値を多くできるんですよね。
しかし、いよわさんが「覚悟」を見せたら勝てるボカロPいますか?コンテクストの評価はその作者自体に興味がなければそもそもされません。いよわさんはそれをする人が現状いますが、全ボカロPにいるものではないでしょう。ではどうすればいいのか?このまま二冠という前代未聞の事態を引き起こし、多様性を殺してしまうしかないのでしょうか?
いよわさんの優勝が喜ばしいのはそうですが、この懸念によっていよわさんがTOP100参加を躊躇っている可能性も大いにあります。
#ぼかれびゅ をやりましょう。
コンテクストどうこうに限った話ではありませんが、ぼかれびゅは単純にレビューをするだけであり、作品に情報を付け加えることでもあります。
ボカロPがこの曲に関連するこのような経験をなさった、このような過去があったというだけで十分です。
リスナーは今やボカコレの結果に対して大きな権利を持っています。ただ作品を評価するという価値観さえ捨てなければ、それは意味のある組織票になります。
最後にいよわ界隈ですが、私が見ている限りでも心が離れ始めている方々が大勢います。鍵垢ゆえ引用できませんが、そもそもほとんどの方々が鍵垢に籠っているのは結構異常事態です。(ヘビー層の話です。ライト層は結構賑わってるみたいです。)
実は純セメスは活動を極小化し、@iyomizuderaは活動を今年の初めに停止しています。その上で公式供給も途切れ途切れだったので、最早いよわ界隈は崩壊寸前と言っても良いと思います。且つ、我々に止める術はありません。
いよわ界隈が崩壊するとどうなるでしょう。
確かに暴言を吐く人は居なくなるかもしれません。しかし熱心に考察をする人も居なくなります。小規模なファン同士の繋がりだけが残り、曲がりなりにもいよわさんを深くまで評価する人はいなくなります。ユリイカで研究が行われるような深みを持ついよわさんは、消えてしまいます。
いよわさんの本質は、死に絶えてしまいます。
貴方の「覚悟」を見せてください。
他ならぬ貴方のことなのですから。
あとがき
正直次は色んなボカロPにとって重要なボカコレになると思います。ラストルーキーの方々もかなり多いでしょうし、そもそもニコニコのダウン以降ボカロ界隈は比較的かなり落ち込んでいます(2023年がすごかったのもありますが)。
私自身いよわさんが何もしなければいよわ界隈から離れようかと思っているくらいです。まあ…私の生きる意味はいよわさんの他にないので、それは理性の死を意味しますが。
夏だか秋だかが中止になったため実に1年ぶりのボカコレ、楽しみですね。