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雑記 愛の証明/虚構を見つめる

愛の証明

【補足その1】
なんか創作者と視聴者の関係に関する議論みたいなムーブメントが起こってませんか!?最近しばらくTwitter見てなかったので細かい部分は分かりませんが、このnoteはそういう議論が始まる前から考えていたものです!!!全く関係はないはずです
一部だけ切り取るとこう……名前出していいのかな?やめとこ あの人を貶してるように見えるのも無理はないですが、実際のところ書きたいのは真逆のことです!そこら辺の補足を最後に載せときます
それと、全ての批判(一般名詞)を正当化するためのものでもありません
あとでまた書きますが、文中で「作者」として想像しているのはひと握りの有名創作者のことです。





好きになれば好きになるほど、気に入らない・嫌な部分が見えてくるものである。それは完璧なものが存在し得ない世界では覆しようのない摂理である。
ならば、気に入らない点を羅列し表明すること…批判は愛の証明になり得るのではないか?逆にそういった点を無視し作品を全肯定するのは、それこそ浅慮なのではないか?
(ただし、「敬意を払う」という信念を忘れてはいけない。それを忘れた時こそ愛の終わりである。)

批判は賞賛と対立する言葉であり、それは破壊と創造のような…ネガティブな感情から生まれるものと、ポジティブな感情から生まれるものである。このネガティブな感情を見過ごすのではなく、それすら愛の証明に使えるのなら、というもの。

愛と言うが愛とは言語化できない漠然とした概念である。ここでは「知識」だとか「教養」の言い換えとして用いることにする。『恩返し』などの意味は、「知識」に至るまでの過程としておく。
他人に見せるためのもの・役に立つものという特徴を持つ。

批判をする上で無視できないのが作者へのダメージである。次の話にも繋がることだが、批判を受け止められない創作者は存在する。それらが「創作向いてないよ」で切り捨てられるのは実に勿体ない。
愛の証明の役割は自己満足と作者の鼓舞と他ファンの鼓舞にあるがこれでは最初の1つしか達成されない。むしろ2つ目において真逆の道を行っている。ここの対策を考える。

大前提、批判はぐうの音も出ないような正論である必要がある。
(ボカロ界隈批判としての)砂の惑星が分かりやすいが、その頃客観的に見て確かにボカロ界は砂の惑星だった。2014・2015は否定されるべくして否定された。そこに賛否両論やっている場合じゃないというのが次の話であるが、今は置いておく。



さて、先述の通り批判が悪とされる大きな原因は作者の心の弱さにある(が、それを作者が気に病む必要はない。それはファンの度を越した行動の結果であって責められるべきはファンである→【補足その2】)。そこさえ解決出来れば批判は良しとされるのでは?という考えに拠る。そして考えついたシチュエーションは2つ。

作者の心がめちゃくちゃに強い場合
あっマジで?ごめんね直します…ありがとう!
これで終わり。
本来の批判の役割を十分に果たしている。心の強い作者が一般的ならこの批判の理論も一般論として堂々と提起されていたことだろうに。
先の砂の惑星の例でも、ボカロ界隈には心が強い人がいない訳では無かっただろうし、そういった方々がアンサーソングを作り続けて来た。とどめを刺すどころか"学び"を与えたのである。
自分はハチを知らない世代ではあるが、ネームバリューもそこに拍車をかけたと思われる。
最も平和な、批判による愛の証明だろう。


もう1つは…
作者に言葉がもう届かない場合。死んだとかではなく、ファンとの関わりを完全に断っている人間のこと。

鼓舞のしようがない。これではただ普通に…批判とかなしの単純に褒めるだけの応援すら意味をなくしてしまうだろう。
ここで批判は市民権を得ている。すなわち先程書いた「愛の証明の役割」…そのうち1つ目と3つ目を果たす手段として、本質的に賞賛と同じなのだ。
また、作者はファンを見ていないので批判があっても変わらず創り続ける。それで界隈が廃れても、ファンが責任を負う必要はない。なぜなら作者はそれを承知の上で「ファンを見ない創作」を続けているはずだからである。

…さすがにファンが責任を負う必要はないは言い過ぎとしても、そのくらいの覚悟がある創作者が持つべき思考なのだ。双方にとってあまりにも危険すぎる。
しかしそのような世界(界隈)では、批判とは作者に届けられるために行われるものでは無い。
仮に作者がお気持ち表明などをしたとして、作者は批判される隙を見せたこと、そしてそれが分不相応な行動であること、そこの責任を、どうかわかって欲しい。


ところで、私のいる界隈は、これがまかり通ってしまうような状況にあるようで。



【補足その2】

「作者に言葉がもう届かない場合」が顕著ですが、ここで言う「作者」は基本的に超有名ボカロPを考えています。私はボカロ関連のとある界隈の人間なので。
超有名Pにしても区分が難しいですが……「ボカロリスナー全員にアンケートをとってランキングにした時の上から十数人」と言えば、ボカロPの方々は謙虚で冷静な人が多いイメージがあるので落ち着いてくれると思っています。

このnoteの本質は批判を正当化することではなく、規制の緩め方とマニュアルを考えることです。

冒頭で言った"気に入らない・嫌な部分"はもちろん全てのボカロPに当てはまります。そのうち超有名Pのときの話をしたのであって、そうでない場合のリスナーの役割は「見逃すこと」です。批判は超有名Pになってからでも遅くありません。それは浅慮などにはあたりません。

ね?お願い






ウィリアム・ジェームズが見据える先

ある対象に関して我々の思考に完全な明晰さを得るには、その対象が持っている実用的な種類の認識できる効果をのみ考える必要がある。つまりそれからどのような感覚を期待し、どのような反応を用意しなければならないかである。

ウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』より

森羅万象は我々が学びを得るために存在しているのはもちろん、

学びを得られるなら、虚構に縋ったって

いいじゃないですか?


過ちて改めざる是を過ちと謂うとはよく言ったものです。
褒めてあげたい。

長考の末見つけ出した答えが偽りであっても、
むしろ受け入れられれば思い通りでしょ?


創作物から作者の行動原理や心情の推察、果ては未来予知さえ可能にする『考察』……いえ、以前誰かが『詮索』と呼んでいました。

各人の中にいる、想像上の創作物、そして作者。オリジナルさえ想像であるのに、そこに実体があるように振る舞う"劣化コピー"は、時に狂気を以て人を殺す。それは作者の意思であるか…はともかく。

つまり作品──作者の脳内を少なからずトレースしたものから、それを自分の思考にコピーすれば……それを何度も繰り返せば、いずれテセウスの船よろしく同化することが、可能なのです。
これを正当化するのが、プラグマティズムなのです。

わたしは虚構を見つめます。

そこから学びを搾り取ります。

憧れのあの人の思想・人生・言葉一つ一つが物語、
そんな人に出会った時点で、実用性botになると決まっていたようです。

あの人に狂わされてしまった。
その責任はどこにあるのでしょう?

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