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小説|古書庫の老人

 私に知らないことはなかった。
 すべての知識をこの書庫の中から手に入れた。父が残した膨大な量の本を整理した棚は、すでに高い天井に届きそうである。吹き抜けの洋間を利用した父親の書斎はいつも薄暗く、埃の膜がかかっていた。太陽の侵入を許さない部屋の中は黴臭く、背中を撫でていく湿った空気がどこか気持ち悪い。けれど、ここにいると安心するのだった。生涯をかけて集めたというその蔵書は数万を超える。ここは世界のすべてだと、小さな私は思っていた。
 棚に並べられているものはすべて目を通した。読み終わったものはそばに置き、新たに読み終わったものは重ね、いつしか本の塔が出来上がっていた。名作と呼ばれたものも、医学の専門書も、冒険家が遺した日記も、どこから手に入れたものかわからないものまですべて読んだ。本は私のすべてを受け入れてくれた。私の知らないことを教えてくれるよき師であり、私の悩みを理解してくれるよき友であった。学校は私には必要なかった。
 それゆえ、私は孤独だった。喉は嗄れ、話すこともままならない。読唇も手話も出来るが、遺産を目当てとする客人の多くはそれらを理解することはできなかったようだった。それでも私は本読み、知識を深めていった。自分の知らないことがあるというだけで気が狂いそうだった。だがどれだけ読んでも、多くの知識を手に入れたとしても、私の中から渇きが消え去ることはなかった。喉を引っ掻き、身を破壊せんとする内側からの激しい衝動は絶えることはなかった。

     □

 あの洋館には魔物が住んでいるらしい。何百年も前からある屋敷には人は寄りつかず、夜の闇にひっそりと蝋燭が灯るだけなのだそうだ。僕もそれを間近で見たことはなったけれど、その噂だけでも、十分に恐ろしかった。幽霊や妖怪がいるからではないのだろう。自分の知らない物が、想像もつかないものがあるということが、はっきりとわかるからだと思う。
「どうしてあそこに入ろうとしたんだい?」
 建物の扉の前で少女が立ち止まっていた。吸い込まれるように入ろうとしたところで僕は彼女を止めた。
「だって、ご本が読んでいるんだもの」
 そういって彼女は僕の手を振り切り、重たいであろう扉を開いていってしまった。中から溢れだす空気はとても苦く、気持ちのいいものではない。けれども、嫌だと思うのと同時に、彼女がなにに引き込まれたのかということも気になるのだった。本が読んでいたというのは、どういうことなのだろう。それは、この建物に住む得体のしれないものに惑わされているということなのだろうか。
 閉まりはじめた扉に手をかけ、考える。このまま進むべきか否か。きっと、足を一歩踏み出せば僕の知らない世界が広がっているのだろう。同時に、退路を断たれもとの生活には戻れなくなる。
 僕は重たい足を持ち上げて、異質な洋館に入っていった。

「どうしてこんなところまで来たのだ?」
「女の子がここに迷い込んだから」
「本当はきみ自身が入りたいと思っていたのだろう?」

「どうしてこんなところまで来たのだ?」
「あなたに会いに」
「どうして私のことを知っている?」
「本で読んだから」

「どうしてこんなところまで来たのだ?」
「あなたに会いに」
「どうして私のことを知っている?」
「分からない。ただ、魅かれるようにこの屋敷に入ったんだ」

 老人は手を広げる。すると、ふわりと本が浮き上がり、彼の後ろを漂い始めた。

「きみは何を知りたい?」
「僕には知りたいことはない」
「なぜ?」
「すべてを知ってしまったら、僕は僕でなくなってしまうから。僕が知るべきことは、きっともう決まっている。それらはわざわざ人から聞かなくても、本を読まなくても、その機会は訪れるんだと思う。必要なことはすべて用意されているんだもの」

「それならば私がこのようになることもすべて、決まっていると? 私が乾くのは、本当に知るべきものがないからなのか?」

 彼は身を乗り出した。本は高くまで持ち上がり、今にも降り出してきそうである。

「世界の心理なんて、僕にはわからない。見てきたものも聞いてきたものも、知っていることもあなたには敵わないだろう。けれど、少なくとも僕に言えることは、あなたにも知るべきことが用意されているということ。それを手に入れるまでは、あなたは満たされない。本来ならばあなたは崩壊しているはずなんです。人間の身体で、何百年も生き続けることは不可能です。別の媒体に移し替えたのならば別ですけれど。知識はあっても技術はないようですから、そういうわけでもなさそうですね。だから、あなたは本当なら死んでいるはずなんです。けれど、知識を得ること、知ることに対してかなりの執着を持っている。そして、渇きを満たすために必要なことも薄々感づいていたんじゃないですか?」

 彼は黙り込んだ。

「きっと、あなたは死にきれていない。本の山に埋もれ、文字の海に沈みたがっている。けれど、それでは満たされない。渇きは増す一方だと思いますよ」

 彼は立ち上がり、歩み寄る。足はもう棒切れのように細く、折れそうだった。
 浮かび上がった本が彼を支え、どうにかして前へと進む。

「どうして、私は乾くのだ」
 掠れた声で彼は呟く。

 僕は彼の骨ばった手を握りしめた。冷たくなった皮膚が茨のように僕の指を刺す。
「きっと、人のぬくもりを知らなかったから。知ることはいつでもできる。本を使えば手に入れられない知識はない。けれど、身体を使わないと得られないものはある。どんなに質のいい言葉で表現されていようとも、想像だけでは理解することのできない事もあるはずです。あなたはきっとこの中にずっといたんでしょう。太陽の光を浴びることもなく、ずっとこの中で」

「あなたは知らなくてはいけない。人の温もりを。人間の温かさを。光を、知らなくてはいけない。その目で確かめなくては、あなたの心は潤わない」

 そういって僕は屋敷を立ち去った。
 明日からはここを一般開放してもらうつもりだ。
 あの老人がどう思うかはわからない。けれど、彼にも知ってほしい。

 彼にも、生きてほしい。

【情報】
お題:#僕をシナリオボスにしたらどんな感じですか
→ 書庫の番人 物理攻撃は一切通用せずエンカと同時に「ワード」の応酬が始まる。飛ばす言葉の選択を誤ると書庫の外まではじき出され1からやりなおさねばならない(@tsukada_koshi)

2013.01.18 22:20 作成
2024.10.13 15:32 誤字・脱字修正

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