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小説|浸水少女
ふわりと身体が浮く感じを受けた時には、もう私はどこにもいなかった。
□
アスファルトの小さな欠片を蹴って進む。低く放られる黒い塊は、道路に当たるたびからん、と虚しく響いて夕方の帰り道に沈んでいった。1人だけの通学路はとても静かで、橙色の太陽が眩しい。学校を出てから見つけた石は土手に差し掛かったところで転がって落ちていってしまった。
「あ、」
それはあっという間に草むらの中に紛れて見えなくなってしまう。心地よい質感だったがために、とても悔しい。探し出してしまおうか。
私は滑るようにして芝を下りていった。制服が汚れないように慎重に、転ばないようにゆっくりと。落ちたであろう方向へと足を向け、学校指定の鞄を肩にかけ、草をかき分けて黒い塊を探す。けれど、どこに行ってしまったのか、まったく見つけられなかった。指先を葉で切ってしまい、赤い線が一本はしる。
見失ってしまったことに腹が立って、怪我をしてしまったことに嫌気がさして、私は草むらを大きく蹴った。乾いた葉がソックス越しに撫でていく。それでも、私の馬鹿らしさを増長するだけで、何も生まれはしなかった。
ふと、目の端に鋭い光をとらえた。
「きれい……」
夕陽が川に反射して綺麗に輝いていた。太陽が波に揺られて眠そうに目を閉じる。小さな光の欠片が流れに乗って遠くへと運ばれていった。じんわりと、心の中に初めての感情が湧き上がる。眩しくて目が痛くなってしまうけれど、見ずにはいられなかった。惹きつけられるように進んでいく。心地よさに満たされていくようだった。
「あぶないよ」
誰かに呼び止められた。周りを見回してみるけれど、そこには一人もいない。夕方の川べりになんて普段人はいないはずだ。皆ここまで来る前に土手を走り、家に帰っているはずだもの。
「あなたはこっちに来てはいけない」
同じ声が前から聞こえ、ふと確認してみれば、そこにはやはり誰もいなかった。私自身が、川に映っているだけ。かわいげのない丸い顔が波によって歪められ、とてもじゃないけど見ていられない。
「私が喋っているの?」
するとなんということだろう。鏡写しの自分が首を横に振ったではないか。私は思わず首元に手を当てるが、私自身は動いていなかった。
「そう、わたしが喋っているの。あなたはこれ以上進んではいけないわ。死んでしまう」
「どうして? 私、水泳の授業では一番なのよ? もし川に飲みこまれたとしても、すぐに岸まで戻れるわ」
「そういうことじゃないのよ」
そう言って彼女は、立ち上がった。川に映るはずのない足元が現れる。そしてそのまま歩いていった。私も、それに倣ってついていく。
「あなたは自分が何をしようとしていたのかわかってない。綺麗だからと近づいたって、それはただの自殺行為でしかないわよ。まんまと餌に引っかかる虫のようね」
「私がばかだって言いたいの?」
波が一層大きく揺らめく。
「ちがうわ。もうちょっと自分の行動に意識を向けてほしいと言っただけよ。本能のままに動いていたら、気づかないうちに死んでいるわ」
彼女の醜い手が、波打つ太陽に添えられる。綺麗なものを穢すだなんて信じられない。なんてことをしているのだろう。
「今すぐ手を放して!」
私は叫んだ。片方の靴を脱ぎ、彼女の顔めがけて投げつける。どぷん、と大きな音を立てて当たったけれど、彼女はつまらなそうに目を細めるだけだった。
「だから、今のあなたの状況について認識しなさいと言っているの。あなたの中にある物だけが正しいとは限らないのよ? あなたが求めていてもわたしは求めていないわ。わざわざ身を滅ぼそうだなんて、それこそ馬鹿げていると思うのだけれど」
「馬鹿じゃない! それに、私はあなたの意見なんか聞いてない!」
私はもう片方の靴も脱いで、川に入っていった。冷たい水が足元で渦巻き遠ざかっていく。気を緩めたら倒れてしまいそうだけれど、それよりもまず彼女を懲らしめないと。私の気が済まない。川の真ん中で太陽に触れている彼女めがけて、走るように進んでいった。
ふと、周りから一切の音が消えた。水の音も、車の音も、何もかもがなくなっている。
目の前には太陽もなかった。いるのはただ一人、私の偽物だ。
「何度も言わせないで。今すぐ陸に戻って家に帰りなさい。小さなあなたにはまだ早すぎる」
静まった水面には正確な姿の私が映っていた。輪郭も、本物のようにはっきりとしている。
「早いって何がよ!」
水を蹴りあげて彼女に降りかけようとするが、届かない。足が重たくでもどかしい。
「本当は自分で知ってほしかったけれど、考えてと言っても反発するでしょうから、わたしの口から言わせてもらうわ。
いい、あなたみたいな成熟しきっていないものは、迂闊にものを取り込んではいけないのよ。それは感動だったり、衝動だったり、何かしらの心理的な働きかけね。普通の人になら当たり前にある精神的な作用だわ。けれど、あなたのような子供には、それらのものを扱うすべが整っていないのよ。だから人並みに感動しようとしたって、それは心の奥底に深く入り込んで自らを壊してしまうかもしれない。そのせいで自分自身がいなくなってしまうかも。綺麗だ、と思う程度ならいいわよ。けれど、それに固執してはいけない。もっと広い目で見ないと、本当に死んでしまうわ」
彼女の口は止まらなかった。私の偽物の分際で、説教をするつもりか。
「うるさい! あなたにとやかく言われなくても、私なら平気よ!」
彼女を傷つけたい。私のことを何も知らないのに偉そうなことをいう偽物を懲らしめたい。
一歩踏み出したところで、私は体勢を崩してしまった。あるはずの地面がない。真っ暗闇に足が飲みこまれていく。
「なにこれ……!」
浮かび上がろうと思っても、沈んでいく身体は止まらなかった。冷たい水が、服の中に侵入してくる。それと同時に、得体のしれない感情が静かな暗闇から伝わってきた。足の裏を舐めるように撫で、そして侵入してくる。皮膚を通り越して身体の中へ、不快なものが染み込んでくる。
水面に浮かぶ私の偽物は、悔しそうに顔をゆがめた。
「だから言ったでしょう、もっと広く見てって。あなたには自然の美しさだなんて、言葉だけでいいようなものだわ。本物を見て一人前のように受け入れようとしたからそうなったのよ」
暗闇が腹の奥へと到達する。沈み込む身体と這い上がってくる感情。私には、元に戻るすべなどなかった。
私の大切な、私である証はもう飲みこまれて消えてしまっていた。
【情報】
2013.02.08 00:15 作成
2024.10.14 21:49 誤字・脱字修正