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小説|暗闇の中に

 扉の向こう側は、何もなかった。真っ暗闇が、どこまでも続いている。
 どういうことだろうか。僕の後ろ側にはこれまでどおり廊下が続いているし、扉にとりつけられた窓からは僕が所属するクラスの風景が映りこんでいた。見知った顔が楽しそうに昼休みを満喫している。
 それだというのに、開いた先には何もないのだった。トンネルの中に入ったように、ただ暗いだけ。何か形があるのかもしれないけれど、覗き込んだ先にはどの角度も真っ暗だったから、きっと足を踏み入れれば落ちて行ってしまう。夢ならばいいだろうけど、ここは現実の世界だ。落ちて行ってしまったらどうしようもない。
 これが現実かどうかはわからないけれど。
 いったん扉を閉め、もう一方のドアへと進んだ。そちらにも同じように教室の中が見えるし、特に変わったこともない。おかしなところは何もなかった。開いてみても、景色の通りクラスメイトが談笑している。何人かは顔を傾けて入ってきた人物を確認したが、すぐに会話へと戻ってしまった。
 何だっていうんだ。
 真っ暗闇のことはわからなかったけれど、部屋の中に入れたのならばそれでいい。僕は自分の席へと向かい、次の授業の準備をした。

     ■

 けれどもそこにあるのはやはり暗闇だけだった。
 学校が終わり部活動の時間になると、皆教室から出ていく。どちらの扉を使っても、生徒は暗闇にのみこまれることなく廊下へと行くことができるようだった。僕もそれに倣って扉に手をかけるが、少しばかり重たくなっているような気がする。滑りが悪いのか、力を入れないと開かなかった。ぎい、ぎい、と苦しそうな音を立ててドアは開いた。
「……なんで」
 僕の目の前に廊下はないのだった。
 もう一つの扉も試してみるが、同じように暗いままだ。窓もすべて開いてみるが、黒い色しか現れなかった。この教室の中に完全に取り残されてしまった。
 なんで扉の向こう側は真っ黒なんだろう。カーテンがかかっているわけでもなかった。手を伸ばしてみれば、ひんやりとした空っぽな空間が続いているだけ。向こう側が見えない暗闇が、果てしなく広がっているだけだった。
 僕は夢でも見ているのだろうか。
「違うよ」
 暗闇の中から声がする。
「違うんだ。きみは夢を見ているわけじゃない。ただ、物の見え方が変わってしまっただけなんだ」
 それは影のようだった。目の前の暗闇から、のっそりと起き上ってくる。人の形をした黒い人形はすべるように歩き、教卓へと移動する。彼は机に座るように促した。僕もそれに従おうかどうか迷ったけれど、無視する理由も見つからずに素直に頷く。
「この暗闇はね、言ってみれば距離なんだよ」
「距離?」
「そう、距離。ある物とある物を比べた時に、どれだけはなれているかという指標だよ。それによって仲がいいとか悪いとか、相性がいいとか悪いとかが分かるんだ。恋人同士は手をつないで近づこうとする。嫌いな人同士は顔も向けようとしない。距離というのは大事だよ。それによってすべてが変わってしまう」
 彼は白いチョークを使って黒板に文字を書いていく。距離という言葉と、それに付随する効果について。
 けれど、僕の物の見え方と距離には何の関係があるのだろう。視界の中には物理的な距離はあっても人間関係の距離はないはずだ。
 そのことを聞いてみれば、彼は残念そうに肩を落とす。
「確かに、人間関係の距離ははっきりとは見えないよ。人々の物理的な距離で大まかに推測することしかできない。けれど、きみの場合は違う。人間関係だなんて小さな領域の話ではないんだ。もっと大きな、それでいて特別なもの」
 彼はチョークを持ち替え、新たに文字を書く。
「きみは、これまでに満足したことはあるかい?」
 黄色い文字が黒板を埋め尽くしていく。人間の中にある様々な欲求が列挙されていった。
「さぁ、来てごらん。満たされたことのない項目にはバツをつけるんだ」
 彼は手招きをし、真新しい黄色いチョークを差し出す。僕は文字だらけの黒板の前に立って考えた。どれが僕に足りなかったものなのか。どれが、を満たしてくれたのか。
 けれども腕はマルを描いてはくれなかった。順番に見て行っても、バツしかつかない。甘く判断したとしても、満足したかどうかもわからないものばかりだった。一度満たされても、すぐに空っぽになってしまうものもある。そういうものはどうすればいいんだろう。サンカクでもつければいいのだろうか。
 すべての単語にチェックがついたところで、彼にチョークを渡した。指先をこすり合わせ粉を落とす。自分の席について、もう一度黒板を見た。改めてみると、とても黄色くなっている。
「ありがとう。でもこれで分かったよね。きみはほとんど満足をしていない。そもそも、満足というものがどういうものかすらも分からなくなっているんだ。けれどもそれは恥ずかしいことではないんだよ? 実際きみたちは本当の意味で飢えてはいないんだ。空っぽではなく、少ししかない状態でしかないんだよ。そうすれば、空っぽと比較したらある程度ものが入っているきみたちは、ある意味満たされているんだ。すべてではないけれどね」
「でもそれが距離とどう関係するんだい?」
 良い質問だね、と彼は頷く。
「僕が言った距離というのは、人間関係のように見えないものでも発生するんだよ。世界や、空間や、時間についてもね。何も難しい話じゃない。日常的に存在しているものだ。それを認識するかどうかはきみ次第だけどね。そうやって今まで見えなかったものが見えるようになったんだ。何気なく通り越していた境界線も、改めてみてみるととてもとても遠く感じる。どこもかしこも自分から離れたところにあるようで、誰もかかわってくれないような気もする。その原因がきみの満足度さ。
 きみは今のこの世界に満足していない。満たされていないと感じたんだ。そして、世界に興味がなくなった。そこにあるのはいいけれど、自分とは全く別の世界の出来事のような気がしていた。そう、距離が離れてしまったんだよ。ふたつの空間同士がじゃない。きみという一人の人間と、世界全体という大きなものの間の距離が、離れてしまったんだ。これは滅多にないことだよ。普通は、皆その境界線を認識することはできないからね」
 僕の満ち足りなさが、この暗闇を作り出しているというのだろうか。
 そうすれば目の前にいるこの黒いものも、僕が作り出した距離の産物なのだろうか。
 わからないことだらけだけれど、僕がすべきことはわかった気がする。
 距離がありすぎては駄目なのだ。心地よい離れ具合というものはあるだろうけれど、拒絶のような一方的な遮断では何も起こらない。それでは、ただ自分が孤立して心を空っぽにするだけだ。
「僕は、満足すればいいんだね?」
 立ち上がり、扉へと向かう。
 けれども、彼は僕を行かせてはくれなかった。
「ただ満足するだけじゃだめだよ。努力をするだけでもダメだ。きみの欲の箱は、いつでも物を入れられるけれど常に中身が抜けていくんだ。それは身体を動かすための動力源んあるかもしれないし、距離を作り出すために使われるのかもしれない。だから、きみは満たすことだけを考えてこうどうしてはいけないんだよ。そんなことをしたら、どこかにいる腐った大人にしかならない」
「じゃあどうすれば——」
 彼は教卓から離れ、僕の元へと来る。
「要は、箱の中身を知ればいいんだよ。どれだけ入っているのか、何が入っているのか。そうして、あることに感謝するんだ。世界のどこかには、これが空っぽになって干からびる人間もいる。何かしらものが入っているこの状況に感謝する。そして、拒絶するようなことがあってはいけないんだ。わかったかい?」
 彼はそういって僕の背中を押した。
 扉の向こうの、真っ暗闇の中に放り込まれる。
 けれど、不思議と怖くはなかった。冷蔵庫のような冷たさも夜のような静けさも、僕を包み込んでくれていて、どこか温かい。

 □

「おい、大丈夫か?」
 目が覚めれば、担任が顔を覗き込ませているところだった。
 僕は硬い廊下から飛び起きる。どうやら、倒れこんでしまったらしい。
「貧血か? 男子だからそんなことはないと思うけど、気をつけろよ。受験もあるんだ。自分の身体は自分で管理しなくちゃな」
 そういって立ち去ってしまう。けれど、その言葉の中にはひっそりとした温かさがあるのだった。
 僕の心の中に繋がる、細い糸。
 離れていても決して長くなることはない、証。
 もう一度扉を開いてみた。
 そこにはもう、暗闇はない。

【情報】
お題:今日のゲストはドア(制限時間:1時間)

2012.12.21 07:47 作成
2024.10.13 14/43 誤字・脱字修正

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