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小説|少年ノート
「僕、最近思うんです」
彼は部室においてあったパイプ椅子を開き、机を挟んで私の反対側へと座った。背もたれを前にし、それに寄りかかるようにして対面する。
「なあに?」
「僕たちが見ているこの景色って、本当はないんじゃないかって」
「あら、ずいぶんと哲学的ね。もしかして今日の倫理でそういうことやったのかしら」
「え、あ、はい」
「先生、大学でそういうこと勉強していたらしくて、生徒たちに自慢したいみたいね」
「はあ……」
私は目の前に広げていた参考書を閉じ、新しいノートを鞄から取り出す。そこに、先ほど彼が言った言葉を書いた。
「それじゃ、今日の部活を始めましょうか」
「はい」
私たちは文芸部だった。過去形なのは、今は部として活動していないから。私たちは名前こそ文芸部に所属しているが、活動はしていない。大昔、この学校は数多くのコンクールで入賞するほどに強かったそうなのだが、時が経つにつれてその空気は受け継がれずに衰退し、私たちの代には原稿用紙と鉛筆を買うほどの部費しか与えられないくらいには落ちぶれていた。かといって過去の栄光を取り戻そうと活動することもなく、こうやって部員二人でその日気になったことを中心におしゃべりをする。それを適当に文章にしておけば職員たちも文句は言わないだろう、という考えだった。
最初はただ私の知識を自慢するために思いついたことなのだが、意外と彼は頭が回るようだった。というよりも、彼は自分だけの思考回路を持っていた。ほかの人とは違う、独自の考え方だった。話せば話すほどそれが姿を現し、私の好奇心を刺激する。いつの間にか、私は彼の中身を知りたいがために話すようになっていた。
「あなたが言った、本当じゃないという言葉。それは、具体的にはどういうことかしら?」
シャープペンシルの頭を数回ノックし、書き出す準備をする。彼もそれに合わせて口を開いた。
「はい。僕たち人間は、夢を見ることができるじゃないですか。その時の景色って、今ここにある物ととても似ていることがある。とてもファンタジックだったり映画の中の世界だったりもするけれど、それでもこの部室や学校といった見慣れた現実の風景、先輩やクラスメイトのような実在する人物も、夢の中に出てくる。そうすると、現実と夢の境界はどこにあるのだろう、ということでの『本当じゃない』。
それともう一つ。これはまだ考え途中のことなんですけど、今ここに起こっていることと自分が目を通して認識している世界というのは、本当に同じ時同じ瞬間のことなんだろうか、ということです。僕は眼鏡をかけていますが、この眼鏡を外すととてもぼやけた、水中にいるような風景が目の前に現れます。それは確かに本当の世界なのだろうけど、眼鏡をかけている時とかけていない時では少し世界の見え方が違う。けれども、目の前に存在する世界は一つしかない。だから、もしかしたら僕たちが見ている世界というのはそうだと思い込んでいる風景なのではないか、という意味での『本当じゃない』です」
「なるほどね……」
彼の言葉をできるだけ忠実に再現してノートに書き起こす。一つ目のものに関しては、私も少し考えたことがある物だった。倫理の先生も、もしかしたら言っていたかもしれない。自分の周りにある物はすべて偽物で、自分がそうだと思い込んでいるもの。その中で本物なのは、いまこうやって考えている自分なのだということ。
しかしその言葉を聞いてから私が疑問に思ったのが、周りに複数いる人間それぞれが考えている自分を持ち、自分以外を存在していないものとみなそうとしているということだった。これはどうにもおかしい。自分は紛れもなく存在しているのに、相手からしたら私はただの幻想でしかないのだから。
そのことを彼に伝えると、少し間が開いたところで、おもむろに彼は立ち上がった。
「確かにそうですけど、でもそれは先輩の先入観が思考の邪魔をしているような気がします。だって、自分の周りにいる人間が必ずしも考える自分を持っているとは限らないじゃないですか。確かに持っているかもしれないけれど、それも可能性の話です。それと同じように、彼らが自分を持っていないという可能性もある。なぜなら僕はあなたではないから。そういうことが、多分先輩の頭の中に根を張ってるんじゃないでしょうか?」
後輩の癖に、なかなか痛いところをついてくる。
確かにそうだった。私が考えていることには、私の主観が入りすぎている。これでは先生に怒られてしまうかもしれない。
「でも、あなたが考える二つ目の理由に関してはどういう考えがあるの?」
ノートに文字を走らせながら私は問う。
「それはですね、」
彼はパイプ椅子を正して座った。
「たとえばです。僕がここで立ち上がって先輩の後ろに行くという想像をします。けれども、僕はここに座っている。でも僕の頭の中では、視界こそこのままですが、意識は先輩の後ろにある。別にスピリチュアルなことではありません。想像力の一部です。
そうすると、僕の頭の中には二つの僕がいることになる。どちらも感覚としてはとてもリアルで、どちらが本物なのか一瞬わからなくなってしまう。それでも座っている自分が本物だと思えるのは、今先輩にそういう自分を認識してもらえているからです。
これらのことから僕が言いたいのは、どちらの自分に関しても同じくらいの可能性があったということです。僕は立つことも座ることもできる。というか、どちらを行動として示すかという選択を行った。その結果として、僕は座っている。それと同時に、可能性としての僕がまだ頭の中にいるんです。しかしこれはどうもおかしい。どちらも僕になるであろう未来であったはずなのに、どちらか一方しか見えていない。そうすると、見えていないほうの自分はどこへ行ったのか。もちろんそれは思考の中に閉じ込められているのでしょうが、それでもそれが本物ではないという風に否定することはできないような気がするんです」
私はシャープペンシルを動かすことも忘れて彼の話を聞いていた。
まったくわからない。それなのに、不快感どころか感じたことのない興奮が私の胸の中で膨らんでいくのを感じた。
もっと彼のことを知りたい。
彼がとっても愛おしい。
この興奮の裏に、一人冷静な自分がいた。彼女がささやく。
もしかしたら、私は彼と話したいだけなのではないだろうか。
もしかしたら、私は彼に恋をしているのかもしれない。
【情報】
2012.09.02 00:07 作成
2023.12.01 22:13 修正