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小説|みずうみの底で
どこまで沈んだら私はいなくなれるのだろう。
誰もいない湖に身を投げてからずいぶんと時間が経った。太陽の光を全身に受けて反射する美しい景色の中に飲みこまれている。誰からも意識されない自然の静けさに包まれて、私は自分であることを拒否した。どこにいたって変わらないのだ。私が私であるという理由は、ほかの誰でもなく私自身が決めること。ほかの誰かになすりつけられるものではない。
胸が苦しい。息ができなくなってから結構な時間が経っている。けれど、意識は途切れないし死ぬこともない。心臓も、動いているような気がする。皮膚がふわふわと水を含んで膨れ上がっているけれど、どれも私を否定するためには十分とは言えなかった。
「(……へんなの)」
誰かに自分を決められる事は嫌なのに、自らの身体を拒否するためには自分以外からの拒否が必要だなんて。これでは、いつまでたっても自分自身では何も決められないではないか。どこまで行っても、他者に依存しなければ死ぬこともままならないではないか。
気分が悪い。
目に見える景色はいまだに変わらない。遠くの方で揺らめく太陽と、時折見せる雲の影。とてもきれいな景色だけど、とても遠くにある物だった。私を受け入れてはくれない。完全に拒絶をしているけれど、私は内包されている。どれもこれも嘘ばかりではないか。
ためしに、自分の首を絞めつけてみた。自らの手で息の根を止めてやる。手を伸ばし、首元に指を這わせる。顎の付け根には、太く震える血管があった。押さえつければ、目の奥が白くなる苦しさがある。それは私が生きているという、忌々しい証拠でしかなかった。力を込めて、締め付ける。強く、強く。どこまで力を入れれば私は消えることができるのだろう。もしかしたら力を加減しているのかもしれない。死ぬことができないのは、死にたいとは思っていないからなのかもしれない。身体が、それを拒否するのかも。
どうして私は自らの身体に左右されなくてはいけないのだろう。
自分自身でさえ、自らの意識ができないだなんて、それでは他者と同じようなものではないか。
「(自分の中に二つの生き物がいる……?)」
考えている自分と、感じる自分。心と体は、絶対に等号では結べない。ならば、内面である私は外面である私とは区別しなくてはいけないのだろうか。私がいくら死にたいと自分自身を拒否したところで、身体が、私ではないものがそれを受け入れなければいつまでたっても私は死ねないというのか?
苦しい。どこまで行っても私は他者に依存しなくてはいけないのではないか。
首に添える手を放した。どうやったって、私は自らの意志で死ぬことはできない。沈んでいく身体を持ち上げることも敵わないのだ。身体はそれを求めても、原動力である私が拒否している。私が死ぬことを求めても、身体はそれを拒み続ける。いつまでたっても交わらない、捻じれている関係。ならば私は、自然の中に含まれて永遠を生きるのだろうか。
死んだ方がましだ。
どちらにせよ死ねないのだけれど。
「(どうやったら苦しめずに生きてゆけるだろう……)」
果てしなく長く続く時間の中で、私は痛みを感じながら生きていかなくてはならないのなら、それはとてもつらいことだ。消えることができないのなら、ずっと残るしかないではないか。苦しむことを止めたいと思っても、身体はきっと感じ続ける。認識を閉じることさえできればいいのだろうけれど、私がいくら拒絶したところで、それらは決して断たれることはないのだ。
感覚を切ることができないのなら、認識を忘れてしまえばいいのではないだろうか。そうすれば、どんなに強烈な刺激が来たとしても、私は感じることはない。身体ばかりが苦しくなっても、私はその苦しんでいる様子を中から見つめるだけでいいのだ。私自身は、自由になれる。
「(忘れよう……、忘れよう……)」
心の中で唱える。
おかしい。心の中で唱えたら、まるでその中に自分以外の何かがいるようではないか。自分の中にいる何かに言葉を刻みこむことによって私自身の行動が制限されるようではないか。そうしたら、私というものは、奥底の得体のしれないものと、外側の自分ではないものによって挟まれているのか。私は、絶対的に私ではない。名前を使えばこれらはすべて私になるけれど、私というものは絶対的にこれらとは等号で結ばれない。
もう、私というものはいないも同然ではないか。
私が消えることができないのは当然ではないか。すでに、それは叶えられているのだから。いくら水の奥底にいったって、身体が苦しむだけなのだ。それを客観的に見つめている時点で私というものはどこにもいない。自分の奥底に眠る内側の内側を見つめたところで、そこに私というものは見つからないのだから、私はそこにも存在していない。すでにすべてが完結しているのだ。それ以上先に、何があるというのだろう。
「…………」
なら私は、ここに居なくてもよかったんだ。
なにもしなくてよかったんだ。
【情報】
2012.02.09 ⁇:⁇ 作成
2024.10.15 22:49 誤字・脱字修正