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小説|くじらうみ

 ふわりと身体が浮かぶようだった。
 秋の海というのはすでに身を刺すように冷たかった。身体中を流れている血液がまるで氷になってしまったかのように冷たくなっている。死んでしまうのではないかと思うくらい、果てしない水は冷たく私の身体を包み込んだ。
 いや、私は死のうとしているのだけれど。
 特に大きな問題があったわけではない。人間関係も進路も家族のことも、何一つ不満はなかった。満ち足りていたとは言い難いけれど、少なくとも何らかの精神的な病気になるようなことはまずなかった。今のこの状況を理解するためにあえて言うならば、私は昔から好奇心が強かったということくらいだろうか。知らないことがあれば知りたくなる。そういう性格の考えが足りない少女だったということだろう。
 死がどういうものかを知りたかったのだ。
 テレビをつければ日常的に人の死を報せてくれる。その理由も様々な、生命の終わりだ。それらを見て私は強く惹かれた。私たちには触れることの許されない秘密のようだった。そして頭の中で描く死というのは、とても美しい芸術のように思えた。小さな時から散々教え込まれているように、死ぬということは絶対的な禁忌として私たちの中にあった。あってはならない事。もし目の前で起きてしまったのならば、口を閉ざして目を伏せろと言われた。
それだけ、死というものは私たちの生活から遠ざけられていた。
 そうすれば当然、踏み込みたくなる。隠されたものほど好奇心をくすぐる物はない。しかし、痛い思いをしたくないというのも事実だった。多少苦しくても、傷ができるようなことはしたくない。それでいて、そんなに準備の必要のないもの。出来れば、処理が簡単なもの。
 そうして行き着いたのが海だった。詳しいことは知らない。でも、地面にたたきつけられたり喉を切り裂いたり腹を抉ったりするのは遠慮しておきたかった。首を吊るのも、あとが汚いという。薬なども手に入れにくいだろうし、市販薬を少し多く飲んだくらいでは死ぬことなどできないだろう。せいぜい長期的に体調が悪くなるだけだ。
 海ならば。私の好きな海ならば、私に死というものを教えてくれるに違いない。優しく、囁いてくれると。そう思っていた。
「…………ぐっ」
 そこまで優しいものではなかった。私は、死というものを直前にして海のことが嫌いになった。なんだこの愛の欠片もないものは。しかしどんなに反発をしたとしても身体は深く深くまで沈んでいく。私は完全に戻る機会を逸していた。もがいても、指の間をすり抜けていってしまう。
 ここにきて、私は焦った。
 今まで、死ぬということには何の抵抗も感じていなかった。親に少し申し訳ないと思うくらいではあったが、それでも怖いとは微塵も思わなかったのだ。それよりも好奇心が勝っていたからかもしれない。楽しみで楽しみで、遠足前の小学生のようにはしゃいでいたからかもしれない。どちらにせよ、自転車で堤防まで来ても、海に身を投げ出しても、私はすべてを受け入れることができそうな気がしていた。そしてつい先ほどまで、私は心に余裕が溢れていて、失われていく酸素にも何の苦しみも感じていなかった。
 これが死ぬということなのだろうか。
 何に対してでもなく怖いと思う、このこと事態が死なのだろうか。
 瞼を開いた。
 潮が目に染みる。
 視界に映るのは、ゆらゆらと揺れる真っ黒な世界だった。月の光も届かないほど深い。上と思われるほうを向いてみれば、ずっと遠くの方に白い丸があるだけだった。
 ふと思う。
 私はこれからどうなるのだろう。
 死という、恐怖の塊にのみこまれた私は、このまま心臓が止まってしまうのだろうか。それとも、肉を喰らう海の生き物によって活動の糧となってしまうのだろうか。
 誰も経験したことのない世界に、私は入り込もうとしている。
 そう考えただけで、なぜだか身体中から力が満ち溢れてくるのだった。自分だけが未知の領域に足を踏み入れようとしている。知らないものをこの身体に取り入れることができる。そう思うだけで、私の身体は軽くなった。

「ずいぶんとお気軽なものですね」

 遠くの方から声が聞こえた。
 真っ暗な海の向こうに、かすかに光る白い靄がある。それは徐々に大きくなり、私の目の前に現れるころには、一頭の大きな鯨になっていた。その大きさは普通自動車一台分ほど。鯨そのものを言うよりは、鯨の形をした別の何かというようだった。
「————」
 喋ろうとして口を開くが、空気の塊しか出てこない。それに、少しばかり水を飲みこんでしまった。気管にすこしばかり入り込む。咳き込みたくても何もできなくて、とても苦しい。
「別にあなたは口を開く必要などありません。あなたは頭に言葉を浮かべればいい。そして、わたしの問いに答えなさい」
 鯨の声というのは、耳を通して聞こえるというよりも頭に直接語りかけているようなものだった。頭の中で響くというよりは、耳じゃないところから聞こえるといった類のもの。私にも、よくわからない。
「さて、あなたは死のうとしているのですか?」
 頭に言葉を思い浮かべるだけ……。
「(いいえ)」
「そうですか。では、なにをしにこの海へと侵入したのですか?」
 何のためか。そんなもの、決まっている。どんなに怖い思いをしたからと言って、私は目的を見失ったりはしない。
「(私は、死というものがどういうものなのかを確かめるために来ました)」
 言葉を思い浮かべるというのは、思ったよりも簡単だった。これから話すことをシュミレートするようなものだ。
 しかし鯨は、私の言葉に顔を曇らせた。
「死、ですか。あなたのような人間が、わざわざ触れようとするものではありません。いずれ受け入れるしかない世界の掟です。それなのになぜ、あなたは深く干渉してくるのですか?」
 鯨の声は、怒りよりも疑問のほうが前面に出てきている様子だった。なぜ私のような人間がこのようなことをするのかが理解できないといった様子である。それに、私のことを人間だなんて 言うのだから、きっとこの鯨はただの鯨ではないのだろう。もっと不思議な現実に囚われない存在なのかもしれない。
 そんなことを考えられるくらいには、私の心に余裕ができていた。
「(なぜと聞かれても、私にはあなたの求める答えを返すことができません。確かに生き物は総じて死というものを経て自然に帰っていくでしょうが、それ以上に死というものは私に大きな影響を与えました。とても美しい、完成された美術品のような世界があったからです。私は、その正体を知りたいだけです)」
 その白い鯨は、肩を落としたように見えた。落胆したような、ひどく悲しそうな目をしている。
 ゆらり、と鯨が揺れた。
「あなたは本当に人間なのですか? ただの人間が、そのように死に対して肯定的であるはずがない。死を覚悟したものならばそのような態度であることもある程度考慮できる。しかし、あなたはまだ若い。死についても多くの誤解がある。それなのにあなたは、自らその境界線を越えようとした。わたしは、あなたのような人間を見たことがありません。通常ならばすぐにでも殺して二度と上に戻れないようにするのが正しいのでしょうが、あなたのように少しばかり特殊な人間はおそらく繰り返すでしょう。もしかしたら、その最中かもしれない。その連続を断ち切るのも、わたしの仕事です。
 さて、死というものには二つの意味があります。動的な死と、静的な死です。前者はあなたたちが普段から考えている死というものです。肉体の生命維持装置が破綻し、生きることができなくなったという意味での死です。これは生き物に限らずすべてのものに当てはまります。当然と思われていた機能を失えばそれは死として認められます。しかし、静的な死というものはそんな単純なものではない。言葉から推測できるように、先程の死と途は真逆の意味です。この死は、内面の死。心に働きかける死です。肉体があるうちはただの感情として処理されるでしょう。『死にたくない』と思う人間もいれば、怖くて気をおかしくする人間もいるでしょう。この静的な死というのは、いわば恐怖という感情そのものなのです。
 いかがでしたか? あなたの求める答えは見つかりましたか?」
 もしかしたら、すでに知ってしまったかもしれません。そう鯨は付け加えた。
 私の身体に入り込んできた『死』が私を食い荒らしていく。待っていたといわんばかりに、身体中を跳ねていく。
 そして心の半分を喰った『死』は、静かに消えて行った。

 身体が、ふわりと浮くようだった。
 秋の海というのは、思ったほど冷たくない。温かくもなかった。
 白い靄が大きく口を開ける。
 私は暗闇に溶けて行った。

【情報】
2012.09.30 20:58 作成
2023.12.04 09:52 修正

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