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小説|仮面被ります
「苦しい」
私は首元に添えられる細い指を睨んで呟いた。
「どうして? ネクタイはしっかりと締めなくちゃ。適当に首にかけておくだけじゃただの首輪よ?」
彼女は不思議そうに首を傾けて私に問いかけた。そのくらい知っている。これから大事な行事があるのだ。学校の未来がかかるものを前にして、ふざけていられるはずがない。
けれど言葉にすることなく私はため息を一つだけ、忘れるように吐いた。それでも心の中の形のない感情は消えることなく増殖していく。冷たい人差し指が時折首を掠める。彼女の身体の一部が私自身に触れているのだということを考えると、胸の中の入れ物はいっぱいになって割れてしまいそうになる。いっそのことこの距離を壊して一つになってしまおうか、とも考えた。
「私はペットじゃない。それに、そんなに締めなくても十分しっかりしてると思う。このままだと私死んじゃう」
「一応わたしのほうが年上なのだから、丁寧語くらい使ってほしいわね」
「小さいころから一緒なのに、ばっかみたい」
私は立ち上がりスーツを正した。少しだけ彼女の匂いがする襟元の形を整え、ネクタイを少しだけ緩める。彼女のあからさまな不服の視線を受けながらも、私には彼女のように正しさに従うことはできない。完璧な彼女のようには、なれないのだ。
彼女も直そうと手を伸ばしたが、私が一歩後ろに下がってそれを阻止した。困ったように眉を顰めて、窓の向こうの灯がつき始めた街を見下ろす。
「どうしてあなたは正しさから目を逸らすのでしょうね」
ぽつり、と彼女はつぶやいた。身体を傾け左肩に髪を流し、耳の付け根から鎖骨までの滑らかな肌が陽に照らされて淡く光る。
なんだろう、彼女に感じていた距離が急に広がったような気がした。何でもこなす憧れにも似た気持ちを抱いていたのだけれど、これほどまでに自分の理解できない事、普段考えることのできないような問いを頭の中で巡らせている姿を見てしまうと、急に自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。彼女自身が進んでしまったのではなく、自分が勝手に飛ばされてしまっただけなのだ。
「……別に逃げてるわけじゃないもん」
「本当に? それじゃあ、どうしてあなたは公の場に出ていくというのに適当な格好になろうとするのかしら。羽目を外して着崩せばかっこいいと思っているのかしらね。わたしには分からないことだけれど、それはとてももったいないことだと思うのだけれど」
背を向けたまま言葉を漏らす彼女に、私は何も言うことができなかった。かっこうつけているわけではないけれど、少なくとも正式な姿になりたくはないという気持ちはあった。それが、彼女の言う正しさから目をそらすということなのだろう。
別にいいのよ、と彼女は言う。
「その人がそうしたいというならそれでもいいと思うの。世界には自分と同じ人間なんていないのだから、好きなようにしたらいいと思うわ。けれどね、こういうことも覚えておかなくてはいけないと思うの。
わたしたち人間が社会という組織の中で生きていく以上、必要とされる形が存在するのね。身なりや言葉遣いでその人間の品格は決まってしまうし、考え方ひとつでその人の人間性は大きく違ってくる。それらの、よく言えば個性となるべき部分を隠していかないと社会には溶け込めないわ。自分の想い通りに物事を動かしたとしても、それはその人の自己満足にしかならない。勝手にやってくれればいいわ。けれどね、それはただ逃げていることと同じなのよ。他者と同じになりたくはないという想いと、自分の個性を潰したくはないという抵抗とが混ざり合って進む足が止まってしまう。それでは意味がないと思うの」
それだけ言って彼女は振り返った。悲しそうに目を細めて、私の緩まった首元を見る。
「縛られたくないのならそれでもいいわ。自分の個性で社会に出ていくのもいい。そういう意味では、自分自身を使わずに溶け込もうとすること自体が逃げなのかもしれないけれどね。でもきっと、そうやって意地を張ることで自分というものを狭めているのかもしれないわね」
狭めている、とはなんだろう。彼女の社会に入り込むための自己の表現の仕方についてはなんとなく分かったけれど、その次が分からない。
そんな私を見てか、彼女は柔らかく微笑んで説明を始めてくれた。
「狭める、というのはなにも難しいことを表しているわけじゃないのよ。どちらかというと、柔軟でなくなる、ということなのかしら。自分以外からの新しい情報をすっかり遮断してしまうから。仮面をかぶらずに大声を出す人間は、自分の言葉で話せないとすぐに暗闇の中に突き落とされてしまうわ。皮をかぶれば共通の言葉があるから借りたとしてもある程度通用する。その中で自分というものを磨いて成長していくのだと思うのだけれど、自分を最優先に叫ぶ人は皆そこしか見ていないからすぐに転んでしまうわ」
彼女は立ち上がって私のもとへ来る。
「わたしはあなたにつまらない生き方をしてほしくないだけなの。吸収をする場をたくさん潜り抜けて行ってほしい。もちろん苦しいこともたくさんあると思うけれど、それは成長をするためには必要なものだと思うから」
細くて冷たい指が私の髪の中にもぐりこんで撫でていく。
「私、そんなに上手に生きていけない」
彼女の胸の中に言葉を振りかける。すると彼女は二度頭を優しくたたき、微笑んだ。
「さっきわたしが言ったことはあくまで極端な例だから、あなたが自分を見つめて必要に応じて自分を飾ればいいと思うわ。どちらか片方であることはまずないのよ」
「ないの?」
「えぇ、ないわ。わたしも失敗だらけだもの。今は綺麗に見える飾りをつけているだけ。だからあなたも頑張って。応援しているから」
そう言って彼女は微笑んだ。首元に手を持っていき、ネクタイをきつく締める。これで彼女は喜ぶだろう。私が私であるためには、ある程度の嘘が必要なわけだ。正しさを見つめて、自分に必要なものを取り入れて、障害物を縫うようによけながら進んでいく。そうすれば私というものが外的にも内的にも誰とも交わらない特別なものになるのだ。
「……行ってきます」
私は自分の姿が映った鏡に声をかけた。
向こうでわたしが笑ったような気がした。
【情報】
2013.02.18 22:14 作成
2024.11.09 10:42 誤字・脱字修正