小説|まわる世界
遠くの方で何かの生き物が大きな雄叫びをあげていた。見上げてみれば、白いクジラである。青い空の向こう側でゆったりと浮かびながら、それは私たちの世界を見下ろしていた。あの大きな口の中はどうなっているのだろう。きっと私たちの住む町は一口で食べられてしまう。
私のおじいさんは、雨はあのクジラが泣くから降るのだと言っていた。だから塩辛く、重たいのだと。なにか悲しいことがあったのだろうかと、雨が降るたびに思い出す。
遠くの方で、別の何かが大きく吠えていた。それは向日葵のような形をしているが、中心には猫の顔がついている。あぁ、あれはたしかライオンというものだ。いつかに図鑑で見たことがある。それはクジラの隣で光り輝いていた。おじいさんに言われたことを思い出す。あのライオンが眠るとき、私たちは夜を迎えるのだと。
私は窓を開いて二つの大きな生き物の様子を見る。どちらも私たちの世界にいたものだ。けれど、今はもういない。人間というものが世界を埋め尽くしてからは、彼ら動物は遠い空の向こう側へと投げ捨てられてしまった。それからは彼らは、彼らの方法で生活をしている。あのクジラの腹の中には大きな海があって、その中には何千何万といった魚たちがかつての海の中と同じように生活をしているのだそうだ。その背中には水が必要な生き物たちがゆっくりと生活している。ライオンはその鬣の中に多くの動物を蓄えているらしい。荒野と変わらない景色の中で、強いものが弱い者の肉を喰らっているのだろうか。
私たち人間はあまりにも身勝手なのかもしれない。この場所には鉄の塊で埋め尽くされている。窓を開けて聞こえてきたのは、些細なことから発展してしまった大きな喧嘩と、地面を汚し続ける化学物質の海だった。自分達は特殊な道具を身体に取り付け、半分生き物であることを止めて、かろうじて生きている。
「どうしてこんなことになってしまったの?」
いつかに父親に聞いてみたことがある。
「こんなことって、どういうことだい?」
優しい笑顔で彼は答えた。
「どうしてどうぶつがいないの? どうぶつ園って場所が昔あったって、歴史の時間にならったよ。図書室にはどうぶつ図鑑があるし、その中にはいろんな形のどうぶつがいたの。ねぇ、どうして私たちの周りにはどうぶつがいないの?」
彼の笑みは剥がれ落ちていく。
「それは僕たち人間が愚かだったからだよ。しょうがなかったんだ。この世の中ではね、強いものだけが一方的に勝つんだ。弱い人間は一生強い人間に勝つことはできない。それと同じように、強い種族に弱い種族が勝つことはできないんだ。だけれどそれでも生きていかなくちゃいけない者たちは、やがてこの場所を離れた。それぞれが適当に進化をしていって、それぞれが満足するように生活をしている。それでも彼らの中では僕たちと同じような仕組みが適応されているのだと思うよ。場所を隔てたって、同じ世界なのだから。変わりようがないよ」
父の言葉は当時の私には難しすぎた。今でも正しく理解できていないが、強いものだけが生き残れるということだけは、私の頭の中にはっきりと残っていた。
□
私は荷物をまとめる。手元のリストと床に並べられた物を1つずつ確認していく。よし、漏れはない。
これから私は家出をするのだ。
それも壮大な計画である。もしかしたらもうこの家には帰ってこれないかもしれない。私は人間ですらなくなってしまうのかも。どうなるかは分からないけれど、どうにでもなってしまえばいいとも思っている。ふたつの相容れない感情が同時に胸の中でせめぎあい、音を立てて消えていく。遥か彼方に浮かぶクジラを視界にとらえた。
「今から行くからね」
私の言葉が届いたのかどうかはわからないが、彼は大きく口を開けて吠えた。さぁ、と少しだけ雨が降ってくる。手の平に落ちてきた雨粒を舐める。とても甘い、お菓子のような雨だった。歓迎してくれているのかな。
パンパンに膨れ上がった鞄が出口の窓に引っかかってしまう。どうにかして抜け出そうともがいているうちに紐が切れてしまった。ごろんと荷物だけが部屋に転がり込んでしまい、私は外へと放り投げられてしまう。そのまま窓は自動で閉まってしまった。
しまった。この窓は自動なのだった。それに、用心深い母親が防犯のためと、外からはどうやっても開かない窓を買ってきたのだ。これでは、玄関扉からしか入ることができない。だがいま戻ってしまったら、家出の意味がなくなってしまう。
「…………いくしかないか」
軽くなった背中を持て余しながら、重い足を引きずって港へと歩いていく。
どの船も今は運航していないようだった。
「ねぇ、あのクジラのところに行きたいのだけど」
窓口にいた太った警備員に声をかける。背伸びをしなくちゃ届かないから苦しい。
すると大きな笑い声か聞こえてきた。びっくりして思わず手を放してしまう。
「なんだい嬢ちゃん。あのクジラのところに行きたいんだって? そりゃ無理な話だ。ここからは出られないよ! 空の向こうは人間たちの領域じゃないんだ。居ちゃいけないし、そもそも行けないんだよ!」
奥の方の控室からも、大きな声が聞こえてくる。彼らはきっと私のことを馬鹿にはしていないのだろう。子供の、夢と現実の境目を歩く覚束ない様子を、ただ愛おしそうに笑っているだけなのだ。けれどそれが気に食わない。そんなに笑わなくたって、もっと優しく私を家に導く言葉を並べてくれてもいいじゃないか。
私は諦めて窓口から離れると、港の奥の方にある倉庫へと向かった。もしかしたら誰かが乗り捨てて行った船があるかもしれない。私は自転車しか運転できないけど、もしかしたら船だって動かせるかもしれないのだ。やってみなくちゃわからない。
しかしどうにもうまいものは見つからないのだった。タイヤだけ、ハンドルだけというものはあっても、大きな船そのものはない。これでは、あのクジラのもと行けないではないか。どうすればいいのだろう。このままではライオンが寝てしまう。暗くなってしまったら夜に私は食べられてしまうだろう。そんなことをしたら一生私は帰ることができない!
そこでふと思い出した。私に運転することのできるただ一つの乗り物、自転車を使えばいいのだ。船だって、海に使うようなもので空を飛ぶことができるのだ。私の自転車だって、頑張れば空を飛べるに違いない。そうと決まれば行動は早かった。急いで家に帰り、感づかれないようにガレージへと侵入する。そして私のお気に入りの赤い自転車を持ち出すと、私は全力でそれを漕いだ。ガリガリとチェーンが軋む音がする。それでも私は気にしない。いつしか、足が空回りするようになってきた。身体が、ふわりと浮かぶような感覚にとらわれる。
いけるかもしれない。
「いっくぞー!」
私は大きな掛け声とともに、ハンドルを上へと持ち上げた。
ぐいっ、と身体が持ち上がる。
漕ぎ続ける脚はもう自分ものもではないみたいだった。何かの機械のように勝手に回り続ける。
気づいたら、私は空を走っていた。道なき道を、意のままに自転車を操ることができる。車輪の下に学校が見えた。図書館も病院も、私の家さえも小さな車輪で踏みつける。
あぁ、私は空を飛んでいるのだ! なんて気分のいいことだろう。ただ空を飛ぶということがこんなにも素晴らしいことなのならば、目的である空の向こうにいってしまったのならば、私の心はどうにかなってしまうのかもしれない。もしかしたら、粉々に砕けてしまうのかも!
けれども、私の足は止まらなかった。それどころか、どんどんと速くなる。それはまるでプロペラのようだった。ぐるぐるとまわる足を犠牲に、私は空へと旅に出るのだ。たとえ足が二本くらいなくなってしまったとしても、取り寄せればいくらでも復元は可能だ。市役所にも元の身体の情報は登録してあるから、簡単に複写体を作ることもできるだろう。
ただただずっと、空を目指して昇っていった。
気づけば私は真っ暗闇に飲みこまれていた。遠くのほうを見てみれば、まだライオンは起きている。眠そうな瞼をこすりながら、牙だらけの口を大きく開けて欠伸をしていた。まだ、夜になっているわけではない。
けれどどういうことだろうか。私の周りには明るさがひとつもない。振り返ってみれば、私がいた場所は紫色に光ってはいるが、その光によって私の道筋が照らされることはない。それにこの暗さ、ただの夜ではないような気がした。それよりももっと深い、目を閉じてしまえばどこか遠くの世界に飛ばされてしまいそうな、暗闇の色をしていた。向こう側に浮かぶクジラとは真反対の色。後ろに迫ってくるその気配から逃げるように私は足に力を入れた。
ごおおお、と空気が強く振動した。雷が近くに落ちた時のような、何かが破裂する音。頭蓋骨が割れてしまったのかもしれない! 私は慌てて頭を撫でてみるが、何の変化もなかった。よかった、と安堵する一方、なにが割れてしまったのかを考える。
前輪が、無くなってしまっていた。正確に言えば前輪だったものはある。けれど、それはもうただの真っ黒焦げになった炭の屑でしかなかった。屈んで手を当ててみれば、力を入れるまでもなく崩れてしまう。自転車としてはもう使うことはできないだろう。そして、静かに引っ張られる。下にある、紫色の球体へと、私は引き戻されてしまう。今ここから落ちて地面に当たれば、私はバラバラに粉砕して空気の塵になってしまうのかもしれないな。死に方としてはまずまずだ。もしかしたら太陽の光を反射してきらきらと光るのかもしれない。見る人からは綺麗と思われるだろう。そんな死に方、ほかにはない!
けれど、恐らく私は地表にぶつかる前には燃え尽きてしまっているのだろう。理科の時間に習った。流れ星というのは、地球の外側にある空気の膜に隕石がすごい勢いでぶつかっているから綺麗に光って見えるのだと。そして地面にぶつからないのは、落ちるよりも先に燃え尽きてしまっているからだと。そうすると、私も流れ星の様に光ることはできるかもしれないが、きらきらと光ることはできなさそうだった。すこし残念である。けれど、宇宙で死ぬというのはとても素敵なことに思えた。いつか、地面に埋めるだけではない新しい葬り方も考えたらいいのかもしれない。宇宙葬。星のように綺麗に、全身を使って生きていたという証を皆に示すのだ。なんと素敵なことだろうか。今度生まれ変わったら、ぜひとも宇宙葬にしてもらいたい。きっと、そのころには導入されているはずだ。
星になってしまうことを覚悟した時、急に体が軽くなった。引っ張られる力がなくなったように思える。それに、身体の周りが明るい。青白く光っている。
「なに……?」
私は白いクジラの上にいた。外見からは想像ができないほどに表面がつやつやとしていて、滑りはなかった。私はてっきり蛙の表面のようにぬるぬるとしているのかと思ったのだが、ジェルのような感触が私を包んでいる。その周りに、みたこともない動物がたくさんいた。私を取り囲むように、白や青い色をした生き物が不思議そうに私のことを見ている。それは、カエルだったりトカゲだったりした。図鑑でも見たことがないような、初めて見るものもいる。
どうやら、背中に乗せてくれらたしい。
「……助けてくれたの?」
クジラは小さく唸る。そうだ、と言っているようだった。
「ありがとう」
私の言葉が届いたかどうかはわからないけれど、気持ちは彼に伝わったはずだ。
「ど……どういたしますた」
唐突に、男の声がする。ぎこちない、どこかの訛が入っている。南の方の喋り方だった。それに、言い方が少し違う。
「あなた、喋れたの?」
座っている場所、彼の表面に優しく触れる。
「普段は……喋るない。お前たちの文化……を調べるたから」
「ふふっ、ちゃんと喋れてないけどね」
「でも……意味は伝わるた。話は……できる」
所々おかしなところはあるけれど、確かに彼の言う通り話はできるようだった。私も、特に違和感なく彼と意思疎通を図る。しかし、ここでもう私の家でのプランは完了してしまった。彼に会うこと、触れること。それだけが私の目標だった。これから私はどうしよう。何か、ほかにやることでもあるだろうか。
「おまえに……伝えることある。聞くけ」
私は頷いた。
「おまえたち人間は……わたしたちを惑星の外へと放り出すた。おかげで……多くの仲間が死ぬだ。わたしたちは怒るたが……意味はないを知るた。だから……新しい場所で生きることを選ぶた」
ゆっくりと、彼は言葉にしていく。私の生まれるずっと前の話だ。
「それからというものの……わたしたちは空の向こうで生きるための方法を探していた。どうにかして……生き延びなければならない。こんな馬鹿げたことで……身体の形の違いだけで……優劣をつけられたのなら……それはおかしいことだと思うからな」
ふと、頭の中に映像が浮かび上がった。夢を見ている時のような、浮いている感覚がある。その中では、美しい宝石のような海が紫色に変わっていくところだった。海にすんでいる生き物たちはみな苦しさに喘ぎ、やがて死んでしまう。身体の小さなものは海にいなくとも倒れ、多くの生き物が息絶えていった。とても見ていられないけれど、きっとこれは、かつての私たちの世界なのだろう。人間が発展する中で食い荒らしていった他の生物の結末を、見ている。私が可哀想といくら思ったとしても、私がやったことではないし、過去は変えられない。とてももどかしい気持ちになるけれど、こればかりはどうしようもないことだった。
「これは、あなたが見た景色?」
私はクジラの背に生えた桃色の苔を撫で、問いかける。彼はうぅ、と唸ると口を開いた。
「そうだ。わたしが見るた景色だ。とても苦しいかったが、死ぬことも出来なかった。どんなに命が削られようとも、死ぬことを許されなかったのだ」
徐々に、彼の喋り方が流暢になっていく。
「それは完全にわたしの意識を外れていたよ。わたしの身体の奥底から、死んではいけないと働きかけがあったのだろうな。そして、わたしはずっと生かされていた。紫色の水を飲めば身体が肥大化していく。身体は見る見るうちに白くなり、光った。わたしは変わっていく自分自身をただ見ていることしかできなかったよ。ここにきてやっとどういうことなのか掴みかけているが、別の力が働いているというのは、なかなか気分の悪いものだ。わたしたちはもうそこ生きることはできなくなった。外に出るほかなかったのだ。海をつかさどるわたしと、陸をつかさどるライオン、そして空をつかさどるフクロウとが空の向こうで生活をするようになった。それからは……見ての通りだ」
私は彼の言葉を景色をもう一度頭の中で巡らせる。難しいことばかりだし初めの方なんて覚えていなかったけれど、どうにかして掴んだのは、自分の知らないところで何かが起きているということだけだ。漠然としたものだけだけれど、それに似たものが私の奥底にもあるような気がする。形にできないのが悔しかった。
「私に何かできることはあるかしら」
「あなたは何もしなくてもいい。わたしたちの過去を変えることはできないし、未来を変えることも出来ないだろう。だから、ただわたしたちがいたということを記憶していてほしい。他者に渡してもいいし、自分だけのものにしてもいい。それはあなたに任せる」
「任せるって言われてもなぁ……」
私はどうすればいいのだろう。ただ光るクジラに触りたいからここまで来ただけなのだ。彼らのことを知って、もどかしい気持ちにはなったけれど、得られたのはそれだけだ。彼の言う通り、過去に遡り発展を阻止することはできないだろう。これからくるであろう時間のために行動したとしても、それはすべて決められた流れに乗って動いていってしまう。彼が空に浮かび上がったのと、同じ理由だ。
「なら私は、あなたたちのことをずっと覚えているわ。死んだとしても、生まれ変わった後でも覚えている。だからあなたもわたしのことを覚えていて。そして、お話をしましょう」
私は彼の背を撫でた。上質な絹のような心地よい肌触りが皮膚を掠めてゆく。
隣に並ぶ青いカエルが小さく鳴いた。
「そうだな。覚えていよう。きっとあなたが生まれ変わるときにもわたしたちはここに居るだろう。また遊びに来て話してもいい。わたしたちはどうにか書物にまとめられてつなぎとめられているが、誰からも思い出されなくなったとき、それは完全な死を意味することになる。だからわたしも、あなたをずっと生かしておこう。いつか身体を失ったら、ここに来るといい。似た器を用意しておく。次に来るのを、待っているよ」
彼はそういって、光る風を吹き出した。私はそれに押されて宙へと放り投げられる。
「あ、」
見る見るうちに私は真っ暗な空を落ちてゆく。頭の奥から何かに吸い込まれるように力が抜けていき、どこでもないところへと流れていくようだった。私はこのまま燃え尽きて死ぬのだろうか。そうしたら、新しい命をもらって彼を見上げるのだろうか。帰れるのかどうかも分からないまま、私は遠くなってゆく白いクジラを眺めていた。
赤い自転車が光を受けて輝いている。
少女の息は光となり暗闇に消えていった。
「お父さん、空に光っているものはなに?」
少女は問うた。
「あれはきっと私たち人間の行いを見る神様だよ。悪いことをしたら叱られてしまうんだ」
「怖いの?」
「怖くはないさ。とても優しいくじらだよ。喋り方は少しおかしいけれどね」
窓の外を目を細めて眺める父親を見て、少女は首を傾げるだけだった。
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