小説|文字隠し
眼を開いたら、大きな黒い塊が目の前を通り過ぎた。ごつごつ、ざらざらとした物体が白い海の中を泳いでいく。周りに散らばる小さな文字を大きな口の中に含んでいき、流れに合わせて飲みこんでいく。見た目は平面だとしても、その中は確実な境界線によって隔たれた小さな世界だった。
私は何をするわけでもなく、ただ浮いていた。空気もなければ息をする必要もない。海というのも名ばかりで、そこはただの無重力な箱の中だった。魚らしいものはいない。先程のような、豪華客船のように大きい黒い塊がいるくらいだ。あとは手のひらほどの大きさの文字の集合体がふらふらとあたりを漂っている。私はその間を縫うように、静かな海の中を泳いでいた。
ここだけが、自分というものが認識できる場所だった。外の世界にいたのでは、周りにほかの人間が多くいすぎて目が回りそうになる。それだけではない。自分というものが、他者によって脅かされてしまいそうだった。相対的にしか自分を決められない私が、どうして生きていくことができるのだろうか。人の海におぼれて死んでしまうかもしれない。そうならないうちにこの海に沈み、ゆっくりと呼吸をする。すると全身から毒が抜けていくのだった。そしてそこに残るものが、自分だと気づかされる。
「……いつか、この自分自身を保てるようになりたいな」
私の呟きは文字になることもなく消え去った。
遠くの方で黒い塊が吠える。耳の奥まで響いてくる太い鳴き声に、思わず顔をしかめた。その遠吠えに、周りにいた小さな塊が震える。一目散に逃げて行った。
その中で一匹だけ、動かない塊がいた。携帯電話程の大きさの、少しだけ大きな奴だ。けれど、ほかの奴に比べると密度が濃いような気がする。文字がたくさん詰まっているのだろうか。
「今のままじゃだめなのかい?」
それが小さくつぶやいた。気を抜けば、遠くからの声に隠れてしまうかもしれない。
私はそれに向かって泳いだ。足に軽く力を入れて、微かな反発力を利用して前進する。
「今のままって?」
「その通りだよ。きみというものをそのままみんなに知らしめるんだ」
「そんなことできないわ。だって、私がほかの人と一緒にいたら私というものがなくなってしまうもの」
私の言葉にそれは肩を落とすように身体を小さくする。
「それはきみの思い込みでしかないよ。きみはどこにいようときみなんだ。きみが恐れているのはただの外側の変化でしかない。きみはここに来るたびに憑き物が落ちたかのように身軽に行動をしている。そうすると、本来の場所で多くのものを纏っているだけなんじゃないのかい? そのままでは傷ついてしまうと思い込んでいるから、何層にも外側を塗りつぶしていく。でも、そんなことをしなくても中心となる君自身は変わらないんだ。それはきみも解っているだろう?」
少年のような声でそれは私に語りかける。けれど、私は何と答えればいいのだろう。彼に、そうだと本当のことを伝えればいいのだろうか。それとも、言い訳として何かしらの反論をすればいいのだろうか。けれど、どんな言葉を返そうかと考えたとしても、適切な台詞が出てこない。反抗しようとしたとしても、彼の意見を覆せるようなものは一向に見つからないのだった。
「けれど、それは必要なことでもあることを忘れちゃいけないよ」
彼はそういって私のもとと泳いでくる。先ほどまである程度開かれていた距離が一気に縮まる。よくよく見てみると、彼の身体の表面は様々な文字が絶えず流動しているおようだった。時折、その向こう側から白い何かが見え隠れしている。けれど、それが何を表すのかはわからない。
「僕だって自分自身を隠している。傷つくのを恐れているのではないけれど、とある理由があって言葉を本当の自分に張り付けているんだ。とても分厚くしているから、なかなか見えないだろう? 本物をぶつけ合うということは必要だけれど、それを多用してしまっては自分自身を壊すことに他ならない。かといって隠し続けてしまっては自分自身が見えなくなる。あれがいい例だ」
そういえって彼は遠くで揺らめいている大きな黒い塊へと目を向ける。私もそれにつられてみてみるが、あれは彼の言う通り自分自身を過剰に隠し続けた結果なのだろうか。そうだとしたら、いつか私もその通りになってしまうということだろうか。
そうじゃないよ、と彼は首を振る。
「アレは極端な例だ。普通はあんなことにはならない。あれはもともと僕たちと同じくらいの大きさだったんだ。けれどそうやって自分自身を必要以上に隠して、いつしか自分自身をいうものを塗りつぶしてしまったんだ。そして、その外側だけが先走って、隠すことだけが残ってしまって、今でも多くの小さな文字の塊を吸収しては自分の外壁にしている。とても馬鹿らしいことだとは思わないかい?」
小さなものが大きなものを見下しているというのは、何とも奇妙な光景だった。私たち人間の世界ではあまり見ることのできない光景だろう。身体が小さい人間が大きい人間を見下すということはあまりない。人が他者を侮蔑するときは何かしらの社会的な指標が必要となる。その中での敵意を持たない比較というものはなかなかないだろう。その不思議な光景が、目の前で起こっているのだった。
「それが馬鹿らしいことかどうかは私にはわからないけれど、確かにそうかもしれないわね。不要な隠ぺいは誤解しか生まないでしょうし。自分自身というものを上手に使い分けなくてはいけないのかもしれないわね」
私は彼へと答えを提示するが、彼は何も言うことはなった。流れる文字がより濃さを増しているように見える。
私も、真っ白な体にいくつかの言葉を張り付けた。自分を隠すためのもではない。自分を補強するための補助的なパーツだ。それを纏うことによって私はこれまで以上に強くなることができる。隠すのではない。恐れるのではない。使い分けられるように方法を知るのだ。
彼を食べる日はそう遠くないのかもしれない。