小説|太陽の姿
僕の目の中にある景色はいつも楽しいものばかりだ。空中には花が咲き、空には大きな鯨が泳ぐ。それは決して空想の出来事ではなくて、実際に存在するものだった。手を伸ばせば形があって、しっとりとした感触もある。けれどもこれらは本当に存在しているのだろうか。想像上のものではないし僕の中には確実にあるけれど、ほかの人はこれらを持っているのだろうか。僕が見ているものを他者も同じように見ることができるのだろうか。
「ばっかじゃないの?」
このことをクラスメイトに聞いた時、汚い言葉とともに呆れた顔が返ってきた。僕だって、変な人間だとは思われたくないからそれらしい嘘をついてさりげない質問をしたつもりなのだけれど、どうやらうまくいかなかったみたいだ。
「僕もおかしいことは承知だよ。でも、僕が触れられるものが本当にきみと共有できているかどうかを知りたかっただけなんだ」
もう一度大きなため息が彼女の口から洩れた。ペットボトルのふたを捩じり、お茶を三分の一ほど一気飲みをして乱暴に机に置いた。紙の束が崩れ床に落ちてゆく。
「あんたの言いたいことくらいわかってるよ。でもね、そんなこと考えたって無駄じゃないの? あるかどうかも分からないことを考えて、答えを見つけたとしても理解できないようなことを真剣に見つめて、ただ時間を浪費するくらいだったら現実を見据えて自分にできることをしっかりやればいいと思うわ。それか、死ぬのね」
死ぬだなんて物騒な事を女の子が口にしないほうがいいと思うんだけどなぁ。ふたを締めて落ちた書類を拾い上げる彼女を見つめながら、僕は考えた。
確かに意味のないことかもしれないけれど、これを考えることによって自分というものがさらに深くなるような気がするのだ。分からないことをわからないままにしておくことも出来るし、そのほうが楽であることも重々承知ではあるけれど、そんな軽い生き方をしていたのではきっと面白くない。頭が空っぽなまま生きて死ぬのだなんてごめんだ。
どうして彼女はそれをわかってくれないのだろう。
別にいいのよ、と彼女は言う。
「あんたの気が済むのならなんでもいいわよ。あなたの時間は私の時間ではないんだし、勝手にやってくれればいいわ。でもこれだけは言っておいてあげる。あなたの考えていること、探していることはとてもくだらないことよ。それを知っていたことくらいでなにかが変わるわけではないわ。ただつまらないことに時間を割いてしまった、という後悔をするだけよ」
彼女はそう吐き捨て、もう一度お茶を飲んだ。苦そうに眉を顰める。
「それはきみ自身の経験かい?」
あまりにも彼女は知りすぎている。直接は言葉にしないけれど、明らかに僕を遠ざけようとしている。それならばこれらは彼女自身が感じた結果だ。僕の予想は当たったようで、傾けたペットボトルが空中で止まっている。中身を飲むこともなく目を泳がせなにかを考えた後、彼女は小さな溜息をしてお茶を置いた。座りなおして、僕の目を見据える。
「えぇ、そうよ。私がすでに体験していることだわ。見つけた答えがあまりにも稚拙でくだらないことだったから呆れてしまったの。だからあなたにも同じ道を歩ませたくはないと思って。好意を寄せている人間が同じ失敗をする必要はないでしょう?
結論から言ってしまうと、必ずしも一致するとは限らないわ。見ているものでさえ同じかどうかもわからないのに、触れるものが果たしておんなじものかどうかは誰にも決めることはできない。だからもし、あなたが口があるお花とお話をしていたとしても、それは誰も咎めることはできないわ。それはあなた自身が認識している世界であり、あなたの中に存在する世界なのだから」
一呼吸おいてお茶を飲むと、彼女は再び話し始めた。
「世界には基盤があるの。誰もいない世界というものが中心にあって、そこには自然や動物といった、意味を必要としない世界の所有物が保管されているわ。そして人間のような意味を持つものが世界に干渉をした時、世界の模倣品が出来上がってその中に現実というものが作られていくの。でもそれは意味を持つものの数だけ解釈の仕方があって、1つのものとして定めることはできないのね。しいて言うなら世界の視点が現実というものなのでしょうけれど、私たちからしたら自分の景色が現実なのでしょうね。
だから視界の差は生じるでしょうし、世界の視界にないものが突然現れるかもしれない。あなたにとってのリアルが他者にとってのリアルとは限らないのだから」
それだけ言うと、彼女はペットボトルの中のお茶をすべて飲み干してしまった。空っぽになった容器を指先で弄り、回す。
それならば、いくら僕が考えたとしてもそれは自分の中で完結してしまうということなのか。でもそうしたら、どうして僕だけが世界にいないのだろう。僕ではないものが僕の世界にいるだなんて、なにかが変ではないか。
「それじゃあ、きみは僕にとってのなんなんだい? 僕のリアルは僕だけのものなのだろう? 見ているものは僕だけのものかもしれないし、それは不思議なことではないのだろうけれど、それだったらきみたちのような他者が僕のシナリオの中に登場することは不自然じゃないか? だったら視点が違うとは言えないんじゃないかな」
操作を誤ったペットボトルが音を立てて床に落ちた。彼女は目を丸くして僕を見ている。そんなにおかしなことを言ってしまったのだろうか。彼女を失望させるようなことを言ったのだろうか。
「それは、ちがうよ。確かにあなた自身の中にはあなたしかいないし、他者というものが入り込む余地はないわ。けれど、あなたの視界には、世界に投影された他者の姿が見えるはずなの。見えているものがあなたにとってのリアル。触れるものがあなたにとってのリアル。それらが他者と一致しないだけで、あなたしかいないということにはならないのよ。その原因は、見る者の認識の違い。世界の視界を初めに取り入れているけれど、その時に余分なものが混じってしまう時があるの。それが認識の差であり、あなたが言っているような視界の差。自分がそうだと思うものが邪魔をして視界をゆがめてしまうの。わかった?」
彼女は早口でまくし立てて落ちたペットボトルを拾った。勢いに押されて何を射ているのかいまいち聞き取れなかったけれど、少なくとも僕が考えていたことは間違いであることはわかった。彼女の言った、考えることが無駄だということも。
僕は立ち上がって荷物をまとめた。必要な書類を鞄の中に入れて、背負う。
「なに、もう帰るの? 仕事まだ終わってないんだけど」
不服そうに眉を顰めて抗議をする。持っているペットボトルを担いで投げる態勢に入った。
鞄を肩にかけなおし、彼女に宣言する。
「その仕事はきっと君の世界の中の出来事なんだよ」
空っぽのペットボトルが顔に直撃した。