小説|喫茶店の窓から
すれ違う人の口元からはコーヒーの匂いがした。きっと朝にファストフード店で新聞でも読んできたのだろう。通勤ラッシュからは一つ遅れた駅のホームの中で、まばらになる人影の中に私はぽつんと浮かんでいた。学校は休みだし、遊びに行く友達もいない。没頭するような趣味もなければ、アルバイトの仕事もない。なにをやっているのだろう、と思ったりもするけれど、結局のところ、ゆったりとした時間を過ごせることができることに甘えているのだった。
私もコーヒーを飲みたくなってしまった。ストレートは苦手だから、砂糖を少し多めに入れて飲む。それだけでは間がもたないから、ケーキの1つでも頼んでみようか。
「いらっしゃいませー」
店員の間の抜けた声が響く。私以外には風格のいいおばさんと、若い女性しかいなかった。駅構内のケーキ屋さんとはいえ、やはり人は少ないのだな。
モンブランとコーヒーを頼み、トレイを受け取って席に行った。丁度ガラス張りの壁から街を一望することができるいい席が残っていた。迷わず座り込み、荷物を広げる。ケーキとコーヒー、それと読み途中の文庫本とメモ帳だ。
コーヒーを一口すすり、苦さに思わず顔をしかめた。すっかり砂糖を入れることを忘れていた。口にはこぶまでの一連の動作をしっかりと意識していなかっただからだろう。舌の先がひりひりと痛む。
カウンターの隣からスティックシュガーを二本抜き取り、自分の席に戻った。ゆったりとしたピアノの音が店内に響く。のんびりとした時間は、優しく私を包み込んでくれた。砂糖を溶かしたコーヒーを、改めて飲む。今度はちゃんとおいしかった。
ケーキを小さく削って食べる。思ったよりもおいしかった。これからはここのケーキを食べていこう。今日みたいに何の予定もない週末は、ここで時間を潰すのもいいかもしれない。本に挟まれたしおりを抜き取り、続きを読みこむ。数ページ遡り、その場の状況を再確認した。
ページをめくる音が店の中に響く。ほかのお客がカップを下ろす音、遠くから響く列車の音、外から聞こえる蠢く人々の雑踏。時間は確かに進んでいるのに、ここだけ切り取られたかのようにゆっくりと、丁寧に流れていく。時折思い出したようにコーヒーを啜り、黒い文字を追いかけていった。
残り十数ページとなったところで、一度本を閉じた。一番のクライマックスだけれど、この続きはしばらく時間が経った後に読もう。
「ずいぶんと暇そうだね」
移り変わるガラスの向こう側の景色を眺めていたら、声がかかった。私の隣の席に、見たこともない少年が座っていた。荷物も注文したケーキも何もない。どうして私に話しかけるのか、なれなれしく接してくるのか、まったくわからなかった。
「別に怖がらなくてもいいよ。変な人じゃないから」
そういって少年は私の方へと近づいてくる。怖くはないけれど、ただわからないだけだった。
「あなたは誰?」
思わず聞いてしまう。人に名前を聞くときは自分から名乗ったほうがよかったのだったか。忘れてしまったけれど、相手に失礼だったらどうしよう。変なことをしてしまったら、謝ろう。
「僕? 僕は通りすがりの男の子だよ。それ以下でもそれ以上でもない。強いて言うなら、君に繋がりのある、ってことかな」
「私につながりがある……?」
何だろう。親戚にもこんな子供はいなかった。
「もしかして、腹違いの弟とか」
私の返答に、彼は大きな声で笑い出した。彼の突発的な笑い声に、思わず周りを確認する。ほかのお客さんの迷惑になってしまっていたら大変だ。そう思って首を回したけれど、そこには誰もいなかった。私と彼、この二人だけだ。
「びっくりした、面白いことも言うんだね。それと、今ここには僕と君しかいないよ。そのほうが、ゆっくり話せるでしょう?」
そういって彼は私に密着するようにして座った。服越しに彼の温かさが伝わってくる。私の肩ほどまでしかない黒い頭。しゅっと伸びた鼻筋に、長い睫毛。美少年というのだろうか。もし私が男の子だったとしても、彼にときめいてしまうのかもしれない。
「ゆっくり話すって?」
「うん、ゆっくりと話すんだ。特に大切なことではないよ。単純に、緩やかな時間の流れに少しだけ介入しただけに過ぎないさ」
途端に彼は難しいことを言い始める。
「時間というものがどういうものか、君は知っているかい?」
彼は私のコーヒーに口をつけ、一口飲む。苦かったのか、顔をしかめて元の場所に置いた。仕草は可愛いけれど、彼の言わんとしていることは全くわからない。時間がどう進むものかなんて、考えたこともなかった。
「時間というものはね、ただ流れているだけのものではないんだよ。僕たちが普段から行っている、選択という行為。これが何個も重なることによって時間というものが形成され、体感することができるんだ」
「選択……って、たとえば右に曲がるか左に曲がるか、というもの?」
彼は頷く。
「そうだね、それも選択の一種だ。あとは、点滅する信号を強引に渡るか渡らないか。今ここで起きて学校に行く支度をするかそれとも寝たままか。大きな意味での二択もそうだし、もっと小さな、意識の外で行われるような選択も含めてだよ。それらは世界という場に出力されるんだ。そして色々な人が選んだ結果が、世界を作り上げている。それぞれの人間が選択を重ねることで、時間というものが形成されるんだ」
今度は彼はケーキをつつき始めた。おいしかったのか、皿ごと膝に持っていって夢中で食べる。ケーキがなくなっていくところをじっと見つめ、彼が何を言わんとしてるのかは全くわからなかった。
「私、あなたの言っていることわからない」
私の言葉に、口の周りにクリームをつけた少年は答えた。
「別にすべてを理解しろとは言ってないよ。そもそも今はただお話するだけの時間だもの。何となくでも時間を過ごして、頭の中に言葉を蓄積してくだけでもいいんじゃないかな」
そういって口元を拭う。おいしかったのか、もう一個欲しいと、目で訴えかけていた。
ただ過ごすだけの時間でも、誰かと話すだけで何か変わるかもしれない。そうでなくても、自分の頭の中に言葉を積み重ねれば、きっと何かが変わるかもしれない。それならば、甘えとしてではなく、自らを磨く機会として、時間を使っていきたいと思った。