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小説|音楽家の悲しみ

 音楽はそこにあるけれど、ないともいえる。
 存在こそするものの、実在はしないのだった。言葉や思考と同じ、確かにあるのだけれど、手に触れることができないもの。人間の認識できる音とはまた違う、一つの芸術の形態だった。
 私はいつの間にかその音楽に囚われてしまった。流動的な空間の表現。作曲者の頭の中にある景色や激動をそのまま形にする、表現の方法。絵画や文章では表現することのできない、動く空間を表すもの。その構造に足を止めて耳を傾けていたら、いつの間にか、出られない闇の底に放り込まれてしまった。
 静かなピアノの音が流れる部屋の中で、私は途方に暮れていた。
 どうやったらここから出ることができるのだろう。そもそも、私はどうやってここに来たのだろう。きっとここは現実には存在していない場所だ。扉も窓もない暗い箱の中に私がいること自体がまず不自然だし、どこからともなく音が聞こえてくるのも不思議な現象だ。
 それならば私は死んでしまったのだろうか。
「死んではいないと思う。だって、身体はあるんだもの」
 ならば夢か。なんと気分の悪い夢だろう。
「だけど夢の時の高揚感はない。なら、ここは夢ではないはずだ」
 それならば、本当にここはどこなのだろう。生きているのか死んでいるのか、起きているのか寝ているのか、私の感覚ではまったくわからない。認識できるものの範囲を遥かに超えている。
 一歩、踏み出してみた。暗い足元にも、床らしきものはあるらしい。深い奈落に突き落とされることもないようだった。
「ここは僕の頭の中だ」
 唐突に声がかかった。少年独特の、高い声。
「だれ?」
「僕は音楽家の子供さ。きっと将来は面白くもない曲を永遠と作り続けるんだろうね。嫌になる」
 彼は真っ白な光のようだった。服装はぼやけて見えない。けれど、強く光る金色の瞳がしっかりと私を射抜いていた。
「どうして私はあなたの頭の中に来てしまったの? 私が聞いていたのはとても昔の曲よ。それなのに……」
 彼は笑った。
「おかしなところに来ているという自覚はあるのに、その場所と時間については認識することができず、さらにはつまらない現実に囚われてくだらない問いをするのかい? まったく、僕の芸術を理解したと思ったから連れてきたんだけど、とんだ見当違いだったみたいだね。
 僕が作るものはただの音楽ではないよ。空間としての芸術だ。文章は視覚的な情報を一切排除して作られる、奥行きのある空間を表現する。逆に絵画は記号的な、個々の意味を集合させてつくられる、非時間的な空間を表現する。ならば音楽は? 音楽はその社会情勢や人の心の情景、あらゆるものを表現することのできる唯一の手段だよ。言うならば、流動的な空間を表現する芸術だ。確かにそこにはあるけれど、目で見ることはできない。存在はするけれど、実在はしないものだよ」
「それは知ってる。でも、どうして私がここに居るのかが分からないの」
 少年は疲れたようにため息をついた。ここまで説明しているのに、どうしてわからないのだろう。そういっているようだった。
「だから言っただろう。ここは僕の頭の中だって。そして音楽というものは空間を表す芸術なんだ。ただの存在が耳にしたとしてもそれは音としてしか認識されないだろうが、理解をしたものがそれを聞いた時、明らかに違う作用が起こる。それはね、空間への誘導だよ。その世界の中に、空間の中に取り込まれてしまうんだ。きみも同じ。僕の世界を理解したから、ここに居る。死んではいないけど、きっと生きてもいないだろうね。だから、寝てはいないだろうけど、起きてもいない。かわいそうに。ずっとこの暗闇の中で、僕の鬱憤を聞き続けなくてはいけないんだ」
 彼はそういうと、暗闇に紛れていなくなってしまった。
 ピアノの音は鳴りやまない。どこかからか、足音も聞こえる。けれど、そこには認識しかなく、実際何かがいるわけではなかった。あるとはわかっているのに触ることができないというものは、何とも居心地が悪い。なにかがまとわりついているかのようだ。
「私は彼の頭の中に来てしまったのね」
 そして、閉じ込められてしまった。
「彼の空間はとても息苦しくて、とても悲しい」
 きっと、曲を作ることにうんざりしていたんだわ。
「自分に訪れるであろう未来に、絶望していたのかも」
 だからこそ、この曲を作らなくてはいけなかった。自分というものを表面的に安定させるためには、こうやって体外に異質な自分を放出しなくてはいけない。なにかの芸術に触れる者たちはみな、そうやって生きている。そうでもしないと、変人として認識されてしまうから。
 どうして私が彼の世界を理解したのかは覚えていない。けれど、こんなことになるのなら、私は知らないほうがよかった。ただの悲しい曲として認識している方が、どんなに楽だったか。
 私は彼の心に沈んでいく。冷たい海はどこまでも暗く、深かった。

【情報】
お題:プロの音楽家(制限時間:1時間)

2013.01.30 00:08 作成
2024.10.14 21:29 誤字・脱字修正

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