小説|再会
「喰え」
突如現れた男に、そう言われた。
私は疑問符を浮かべることしかできない。状況を理解できていない私を見て男は大きなため息をついた。まるで何も知らない私が悪いとでも言いたそうに。
「おまえは何も知らないのか」
頷く。
もう一度男はため息をついた。そして、その場に座り込む。
逃げるのならば今のうちだろう。大きな声を出して走り去ればこのよくわからない状況から脱することができる。冷静になれば考え付く簡単なことも、この奇怪な空気の中では思考をかすめもしなかった。
私も同じようにその場に立ち止まる。
深夜の通学路はひっそりとしていた。塾から帰る途中、熱のこもった自習室から逃れるように出てきた後、同じような空間に閉じ込められるのが嫌だから、新鮮な空気を吸いたかったから、数駅分の距離を歩いて帰ろうとしていたところだった。滅多に通らない住宅街を歩き、ありえない想像をしながら細い路地に入ったところで、この男が現れた。真っ黒なコートに身を包んだ、私の二倍ほどの身長を持つ巨人。しかしその身体は細く、思いっきり殴れば折れてしまうだろう。私の力でどうにかなるとは思えないが。
そして目の前に立ちふさがった後、男は言ったのだ。喰え、と。
正直何の話か分からない。見知らぬ男に通せんぼをされただけでも理解しがたいというのに、対象が示されていないのに動作を指示されたのだ。それを理解できるのは、彼と同じ立場に立っているものだけだ。
「おかしいな。お前だと思ったのだが」
不機嫌そうに言葉を吐き捨てる彼に、私は小さくつぶやいた。
「あの……、あなたは誰ですか?」
私の問いに彼は目を丸くした。そして、大きな口を開けて溜息をつく。まるで身体の中に入っている空気をすべて吐き出そうとしているのではないかという勢いだ。
「おれも目が悪くなったもんだ。人を探していてな。お前と同じくらいの背丈の少女なんだ。前見た時はこの国の服を着ていたから、てっきりこの場所で隠れて住んでいるのかと思ったのだがな。そういうわけでもないらしい」
私の知らないことを、私を置いて話し続ける。
「そもそもあいつが悪いんだ。少年を喰らった後におれと会話をしたのにもかかわらず、おれを置いて領域に戻りやがった。あろうことかおれを締め出した。まったく、何がしたかったのかわからない。それに、一向に扉が開く気配もない。おれは途方に暮れたよ。ここでは結局何もできないから、この世界を回った。そして、どうにすればあいつに会えるかを考えた。一言文句が言いたくてな。あの樹海に繋がっている扉はこの山以外にもあると思ったんだ。でも、ない。いくら探しても見つけることができなかった。だからこの街に戻ってきた。そして、あいつに会わなくちゃいけない。あいつはいつも腹を空かせているからな。なにか食わせてやればついてくると思ったんだが……。人が違うんじゃ意味ないな」
悲しそうに目を伏せる男。私はその顔を覗き込むようにしゃがみこんだ。
「もしわたしでよければお手伝いしましょうか?」
男からしたらこの申し出は意外だったのだろう。当然だ。探し物ではなかった見ず知らずの女子高校生に、仕事を手伝わせてくれと言われたのだ。もし私が男の立場にいたのだとしたら、確実にその人物を疑うだろう。何か裏があるのではないかと、考えるはずだ。
彼がそうしたかどうかは定かではないが、私の申し出を彼は了解した。そして、立ち上がる。
「おれの名前はクロコだ」
「わたしはリン。桐原凛。よろしくおねがいします」
「おぉ、よろしく」
彼はそういって大きな手を差し出した。握手の合図だと気づくのに少し時間がかかったが、私も彼にならって手を差し出す。私の手は彼の手にすっぽりと覆われてしまった。大きく広げても、彼の掌にも満たないだろう。
さて、と息継ぎをして彼は歩き出した。
「なにかアテがあるのですか?」
私の問いに彼は立ち止まる。頭を指先で二三度掻くと、わざとらしく肩を竦めた。
「別に何かあるわけじゃない。でも、こんないい天気なんだ。あいつだって腹を空かせて山をうろついてるはずだ。その近くをあるいていれば匂いにつられて下りてくるだろう」
素っ気なく言葉を返し、歩き出す彼。私もその大きな歩幅に遅れないようについていく。彼も小走りでついてくる私に気付いたのか、速度を落としてくれた。
彼が歩くのはどれも細い道だった。住宅街などの大きな道を避けているようにも見える。なぜそんなことをするのだろう、と疑問にも思ったが、それを聞いたところで彼の探し物が見つかるとは思えない。見つかった後で、それとなく聞けばいいだろう。今すぐに必要な情報ではない。
進めば進むほど、道は暗くなっていく。漂うのはごみの腐った臭いと、埃の臭い。それと、竹の匂いだった。これが竹の匂いかどうかは定かではないけれど、匂いと同時に連想したのが竹だったから、おそらくそうなのだろう。
そういえば、と彼が思い出したようにつぶやく。
「どうしてお前はあんな道を歩いていたんだ? 人間というのは、暗い道を歩きたがらないだろう」
人間、という言い方が少し引っかかる。
「気分ですよ。特に理由があったわけでもありません。直感、みたいなものです」
私の言葉に満足していないのかどうかわからないが、彼は悲しそうな目でぼそりと何かを呟いた。うまく聞き取れなかったが、可哀想に、と言っているようだった。
なにが、可哀想なのだろうか。
聞き間違いだとしても、わけがわからなかった。
彼の意図がつかめなくなる。
途端、怖くなった。私は何をやっているのだろう。なぜ、こんな見ず知らずの人間についていっているのだろう。
逃げようと思えば、できる。
けれど、私は彼に近づきすぎた。名前も教えてしまった。握手もしてしまった。これでは、例え逃げ出したとしてもすぐに捕まってしまうだろう。地球の裏に行ったとしても、彼は探し出すに違いない。
どうしよう。私はどうすれば。
「着いたぞ」
私の思考を遮るように彼が言った。指差す先には、月影山がある。いつの間にか街を一つ通り越していた。
帰れないかもしれない。
そんな考えが頭をかすめた。
私の言葉を聞く前に、彼は歩き出す。いつまでたっても歩き出さない私を見て、彼は振り返った。
「リン、どうした。いかないのか?」
名前を呼ばれた。
「あ……」
曖昧な言葉を返して、彼についていく。その黒いコートの後ろに隠れて、私は小さくなっていた。
山の中に入る。
ふと、空気が変わった。木々に囲まれた場所特有の、あの新鮮なにおいとはまた違う、生々しいにおい。思わず鳥肌が立つような、血の匂い。どこかで動物が食べられているのだろうか。吐き気が込み上げてくるが、上を見てなんとかこらえる。
冷たく湿った土を蹴って進む。時折深くまで入ってしまって気分が悪くなる。落ち葉で足を滑らせそうになった。その度に彼のコートにしがみつき、転ばないようにする。そんな中でも、彼は足を緩めることなく進んでいった。
どんどん、獣の匂いが近づいていく。
もしかして、彼はそこに向かっているのではないだろうか。
再び吐き気が込みあがってきたが、今度は我慢をすることができなかった。後ろを向き、目をつむって胃の中身を吐き出す。久しぶりの感覚に、さらに気持ちが悪くなった。汚い音を立てながら、泣きながら、気持ち悪いのを吐き出す。
「大丈夫か?」
彼も大きな手を私の背中においてくれた。
つめたい。
一瞬で、吐き気が止まってしまった。口の周りについた吐瀉物をふき取ることも忘れ、私は硬直する。
生身の人間が、こんなにも冷たいのだろうか。
鳥肌が立った。
山の中の寒さのせいもある。
それよりも、彼のこの、冬の金属を握っている時のような、刺さるような冷たさのせいで。
私はそれを振り払うように姿勢を正す。彼も訝しげにこちらを見ていたが、私の調子が戻ったのだと思ったのだろう。そのまま進み始めた。
なぜ私はこんなところにいるのだろう。
先ほどから何度も繰り返している問いではあるが、考えても考えても、まったく出口にたどり着かないのだった。それどころか、考えるたびに答えが暗闇に溶けて行ってしまっているような気さえする。
その時、がさり、と葉が鳴った。
ツンとした血の匂いがさらに強くなる。
「見つけた」
男がつぶやく。
その視線の先には、私と同じくらいの背丈をした少女がいた。黒いおかっぱの髪に、真っ赤な着物。陶器のように白い肌と、紅色の瞳。透き通るようなその色に、私は動けなくなっていた。
その手には、赤く染められた薄刃包丁が握られている。
「その声は、クロコですか?」
「覚えていたのか」
「もちろんです。私を喰らおうとした者を忘れるはずがありません」
「喰らう? おれがいつそんなことをした」
「忘れたとは言わせませんよ。私が大好きだったあの子を食べた後、あなたは私の左腕を食いちぎろうとしたではありませんか。『腹が減った』などといい加減なことを言って」
「……そうだったか?」
彼は、ばつが悪そうに頭を掻いている。
彼に対して強くの口をきく少女は、その容姿からは想像ができないほどに肝が据わっていた。貫録がある、とでもいうのだろうか。ぶれることのない一つの軸があるようだった。
そんな彼女が、私を見る。
「その少女は誰ですか? もしかして、あなたの食糧ですか?」
食糧、とは。
私は隣に立つ男を見上げる。彼はそのまま視線を逸らした。
私は、食われてしまうのだろうか。
その時、彼女の後ろで何かが動いた。
人間だ。
脚を一本失っているが、人の形をしていた。地面を這いながら、逃げようと必死に手足を動かしている。
「まだ生きていたのですか」
彼女は冷たく吐き捨てると、持っていた包丁をその人間に投げた。さくり、と彼の背中に刺さる。彼は小さく叫ぶと、そのまま倒れて動かなくなった。
私も、あのように殺されてしまうのだろうか。
一歩後ろに下がった。
「どこに行くんだ?」
男が、クロコが手を背中に回す。彼の大きな掌は私の動きを完全に止めていた。
「クロコ、それはわかってやっているのですか?」
「……なに?」
「その少女、食べられませんよ」
訳が分からない、といったように彼は首を傾げる。
「本当に匂いにつられてきただけなのですか。あなたはもうちょっと欲望のほうを制御できるようになたなくてはいけないですね。
いいですか。私たち鬼はもちろん人を喰らうことによって心と腹を満たします。ただ食すだけでは腹は満たされても心は満たされない。心を満たすためには、その食糧の性質をしっかりを見極めなくてはいけない。普通の人間なら、それなりにうまいでしょう。少し進化しているのならば、相当うまいはずです。けれど、それを越えてしまった場合。人間から少しはなれてしまった人間を、私たちは食べることができません。腹も心も満たされず、拒絶され、世界から消滅します。あなたほどの鬼にもなれば、それくらい区別がついたでしょう?」
少女の口からは、私の想像をはるかに超えるものが次から次へと飛び出してきた。
鬼。
鬼とは、私たちが普段想像するような鬼のことなのだろうか。
クロコは小さく舌打ちをすると、私の背中から手を放した。
「くそっ。お前をおびき出すための道具として持ってきたんだがな。用が済めばそのまま食おうと思っていたのに。喰えないのか」
「そうですよ。あなたの鼻はそこまで使い物にならなくなってしまったのですか?」
「おれも年を取ったからなぁ。でもお前は出てきたから、成功といえば成功だ」
「そうですね」
彼女はクロコとの会話を切り上げると、私のほうへと歩いて来た。
「あなたの名前は?」
「わ、わたしですか……? わたしは、桐原凛と言います」
「リンさんですね。わかりました。もしかしたら、また会うかもしれません。その時はよろしくお願いします」
彼女は小さく会釈をした。私も慌ててそれに倣う。
顔をあげたとき、小さな違和感があった。
身体が、妙に熱い。
「そんな狭いところにいたのでは苦しいでしょう。私たちのところへきたらどうですか?」
確か、彼女はそういっていた気がする。
確かめることもできずに、私の意識は遠ざかっていった。
□
「……本当だ」
「私の言った通りでしょう? 彼女は人間ではない。もちろん、完全に人間から離れているわけではありませんが。世界を、意識しているかどうかはわかりませんが、飛び越えてきているのです。普通なわけがありません」
キコは横たわる人形の頬をそっと撫でた。
「しかし、どうして彼女はここに来たんだろうな」
クロコが小さくつぶやく。
「どうでしょうね……。彼女の血が関係しているのかもしれません」
「血?」
「私にもわかりませんよ。私は医者でもなんでもありません。ですが、彼女の匂いはほかのどの人間とも違っていました。とても古い匂いです。受け継がれているものでしょう」
「なるほどな……」
そういって、クロコは少女の足を掴む。ぶらん、と不恰好に釣り上げられた少女の足をそのまま口に含んだ。噛み切ろうと力を入れる。
「……不味い」
「でしょう?」
「確かにそうだ。この世界の人間の味ではない。別の妖怪を食べているような気分だ」
「私も彼女が何者かはわかりませんが、また会うような気がしたのです。ほかの世界が妙にざわついていますから、そろそろ境界線が揺らいでしまうかもしれませんね」
「どうだろうな」
クロコはため息交じりにそう呟いた。
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