小説|祝福のチョコレート
一つ咳をしたところで気が付いた。どうやら私は死んでしまうらしい。
あまりにも唐突な思いつきに自分でも驚きを隠せないが、それを難なく受け入れることのできている自分にも驚いている。びっくりすることが多すぎて頭が追い付いていない。人であふれかえった駅のホームを進んで、改札を目指す。みなマスクをつけてマフラーを首に巻きつけている。冬になると人間は、もごもごとまるでだるまのように太っていくから見ていて面白い。
けれど、なぜ私は死んでしまうのだろう。色々と理由を考えてみた。最近はそんなに悪いことはしていない。正直に白状すると、コンビニでもらった割り箸の袋に入っている爪楊枝。あれを抜き取らずにそのままプラスチックのゴミ袋に出してしまったことくらいだ。それ以外にはあんまり悪いことをしたという記憶がない。重度の痴呆でない限り、私は悪いことをしない人間であったはずだ。それならば、私は死なないだろう。
特別身体が病弱だったというわけでもない。生まれた時も未熟児ではなかったし、痩せすぎない程度の細い子供だった。食べても太らず、身体の発育が平均を少し超えるくらいの速さで進んでいたためクラスメイトにはよく羨ましがられた。男子のあからさまな視線を浴びるくらいならば、私はずっと子供のままでいいと神様にお願いをしたくらい。高校までは意識するまでもなく皆勤賞を取っていたし、大学に入ってからも指先を紙で切ることはあっても風邪を引いたり病気になったりということはなかったはずだ。そうすれば、私は死なないだろう。
ほかにどんな理由があるというのだろうか。私は神様に嫌われているのかもしれない。平べったい人生に、大きな傷を残したいのかもしれない。確かに退屈はしていたけれど、何も殺すことはないではないか。もうちょっとやりたいこともあったのに。
「大丈夫だよ。すぐには殺したりしないから」
私の目の前を歩くサラリーマンが口を開いた。
「え?」
「きみはまだ死なない。けれど、長くは生きていけないだろうね」
隣にいた男子高校生が言う。
「小さな変化は大きな分岐だよ。それに気づくだなんてすごいじゃないか」
後ろにいた小学生がつぶやいた。
何が起こっているのだろう。みなそれぞれ違う人間のはずなのに、私とは全く面識がないはずなのに、同じ声が様々な方向から投げかけられる。それらはすべて私の死に関するものだった。
私は夢でも見ているのだろうか。
「夢じゃないよ」
足元で、声がした。思わず足を止めて下を見る。
そこには小さな子供がいた。私の腰ほどまでしかない、小学生くらいの背丈をした男の子。けれど、その恰好はまるでハロウィンの仮装大会に出てきたみたいだった。真っ黒なコートを身に着けて、フードをかぶっている。その奥には真っ白な肌と、小さく揺らめく青い瞳があった。少なくとも、私たちと同じ人種ではない。
本当に、同じ人種ではないのだろうか。
もしかしたら、そもそもの種族が違うのではないか。
突然、彼が手を叩く。拍手をしているようだった。
「ご名答だよ。僕は人間じゃない。簡単に言ってしまえば神様だけれど、きみたちは信じないだろうね。人間が考えていた神様というのはいつだって頭の後ろに光を受けていたんだ。雲の上にのっていたりする。けれど、それは人間が作り出した都合のいい偶像でしかないんだよ。彼らは存在はするが実在はしない。そこらじゅうにある書籍と何ら変わらないさ。フィクションなんだよ。けれど僕は実在する神だ。ちょこっとだけ特別なね」
彼は駅名が書かれたプレートの下にあるベンチに、腰かけた。
気づけば人がいなくなっている。線路に零れてしまいそうなくらいにいたというのに。まるで深夜の無人駅のようだった。人の気配がしないどころか、音が聞こえない。私と神を名乗る男の子だけ。そしてその声は、先ほどから私に語りかけていた声と同じだった。
「もしかしてあなたが私に話しかけてたの? いろんな人の口を使って」
「そうだよ」
考える時間もなく彼は答える。その早さに思わず身体が緊張してしまった。
「それにしてもきみは本当にすごいね。どんどん僕たちの仕掛けを見破っていく。さっきの咳だってそうだ。その一回の微細な変化だけで、これから自分の身にどんなことが起こるのか起きるのかということを把握してしまうのだから。理由はどれも当たっていなかったけれど、そういう考えにたどり着く方がすごい」
誇らしげに語る彼は、もしかして私の心を覗き込んでいたのだろうか。
「そうだよ」
悪怯れる様子も見せずに彼は即答した。恥ずかしい。私の頭の中にあった思考をすべて彼は知っているということか。私の頭の中だけに存在していた世界も、彼はすべて把握しているのか。恥ずかしい。いっそのこと死んでしまいたい。
いや、死んでしまうのか。
彼は大きな声で笑った。空っぽな地下に彼の声が響く。
「きみは本当に面白いね! 知識を持て余している。いや、魂を持て余している、といったほうがいいのかな。その器に納まりきらないほどに成熟した魂が、きみの肉体に特別性を植え付けているんだ。というか、特別にならざるを得ないということか。そういうことがありながら、きみは人間であろうとする。人間ではないということを意識しながら、そのことすらも自分の思考に違和感なく溶け込ませている。いやはや、見ていて面白いよ。殺してしまうのがもったいないくらいだ」
目じりに涙を浮かべる彼に、私は一つだけわからないことを聞いた。
「どうしてあなたは私を殺そうとするの? 私、神様に殺されるようなことしたかしら」
すると彼は、先ほどのふざけた頬を締め、表情を消す。座りなおして、足を組んだ。
「別にきみ自身は何もしていない。けれど、その中身が問題なんだ。ただの人間が世界にあふれているのならいいのだけれど、きみみたいな特別なものがあまり世界にいてほしくはないんだ。きみたちはそこにいるだけであらゆるものを乱していくからね。小さなころはその能力も小さいから、行動範囲も狭いから、大した影響はないのだけれど。ある程度大きくなって、様々な人間とつながるようになってくると、その繋がりを通してきみはいろんなところに影響をばらまいてしまう。そんなことがずっと野放しにされていたら、いつの日にか世界が壊れてしまうんだよ。だから僕たち神はきみみたいな存在を殺すんだ。肉体からその原因である魂を引き抜くんだね。なに、そんな痛いことじゃないよ。これを、食べてくれればいい」
そういって彼はコートのポケットから銀色の紙に包まれたものを取り出した。長方形の、少しだけ甘い匂いがするもの。
「……チョコレート?」
私の記憶が正しければ、この甘ったるい匂いはチョコレート以外にない。その甘さの奥に隠れる苦味も恐らくそれが原因だろう。スーパーによく売っている、板チョコと呼ばれるものだった。
「そう、これはチョコレートだよ。昔は薬として使われていたものだ。そして、僕たちはきみのことを祝福しようと思う。成熟した魂は、その狭い肉体から解き放たれて、新たな次元へと移行するんだ。僕たちと同じ、神の領域にね。
さぁ、お食べ。そして、僕とともにいこう」
彼の手からチョコレートをひとかけらもらう。
私はこれを食べる必要はないだろう。ここで拒否することもできるはずだ。
だけれど、そんなことをしたってまた彼は私のもとへ来る。世界を守るために、私のことをどうにかして殺そうと、いろんな手段を講じてくるはずだ。もしかしたら、もっと痛い目に合って死んでしまうのかもしれない。今よりももっと苦しくなってしまうのかも。
それならば、私の意志で死ぬことができる今のうちに死んでしまえた方が、幸せなのかもしれない。それに、世界を守るために私は死ぬのだ。なんだかかっこいいことだと思う。一生誇ることのできることだ。
まぁ、私の一生はこの時点で終わりなのだけれど。
「いただきます」
私は世界に別れを告げた。