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小説|本の上

「たとえばさ」
 古本屋で買ってきた文庫本を破りながら、彼女は呟いた。いくら一番安いのを買ったからと言って、そんなに乱暴に扱ってはいけない。ごみを増やすくらいならば買わなければよかったのに。内心いろんな言葉が湧いては来るが、彼女のその執拗なまでに一定な、紙を引き千切る音に、僕は何も言えなくなっていた。
「とっても、とってもお腹が空いていた時。あなたはどうする?」
 そんなことを聞く。けれど、僕たちが彼女の言う空腹の状態などに、なりえるのだろうか。このご時世だ。何かしら食べるものはある。お金さえあれば。それに、僕たちは少なくとも普通の人間というものに属しているだろうから、大層困っているわけでもない。確かに、部活が終わった後や夜更かしをしている夜には腹が減るだろうが、ほんの少し時間が経てば何かを食べることができるのだ。そう考えれば、僕たちが食に困ることはまずないだろう。
 それではなぜ、彼女はそんなことを聞いたのだろう。彼女の家がとても困った状況にあるという噂は聞いていない。これもまた、単純な興味なのだろうか。
 ねぇ、答えて、と彼女に急かされて口が開いてしまう。
「僕は、我慢するかな。だってそんなにお腹が空くことはないし、もし空いたとしてもすぐにご飯は食べられるような状況にあるはずだし。そもそも、僕たちが死ぬほどお腹が空くことなんてあるのかい?」
 音が止んだ。彼女は半分まで削れた文庫本を、そっと落とす。自由落下した中古本は、間抜けな音を立てて床に転がった。
「あなたって夢がないのね」
 想像力などは必要なのだろうか。
「たとえば、って最初に言ったじゃない。別に私は現実の話をしているのじゃないわ。空想の話をしているの。想像上の、ありえないことをね。目の前で起こることなんて、そんなもの時間があればいくらだって知ることができるわ。けれど、頭の中でしか展開できないことは、その人間しか知ることができない。私の頭の中にある答えと、あなたの頭の中にある答えが、必ずしも一致するとは限らないもの。そう考えたら、あなたの頭の中身はどうなっているのだろうって、興味が湧いちゃって」
 だいたい想像はできたけれど、と彼女は付け加える。
 そういう意図があったのなら、最初から言っておいてほしかった。それこそ、彼女の頭の中で展開していることじゃないか。自分の頭の中だけで完結していて、自分の空想の中だけで様々なものが補完されている。 その中の一部だけを言葉として発信し、受け取る人間はそれしか知ることはできない。けれど、彼女の中ではすべてが神のごとく整然と並べられているのだろう。それじゃあ、答えようがないじゃないか。
 けれど、ここでずっと黙っていても彼女の空想が先走るばっかりだろう。僕がそれを止めなくてはならない。何かしらの刺激を与えないと。
「とってもお腹が空いたら、僕は想像をするかな。おいしいものを想像して、食べている自分を頭の中でリアルに再現する。そうして、擬似的にだけど、お腹いっぱいになるんだ。その場しのぎではあるけれど、リアルの時間がある程度経てば、僕たちは何かを食べることができる。その時には自分にかけた幻術も醒めて、余計お腹が空いて、余計においしく感じられるんだ」
 僕の言葉がどれだけ彼女に届いたかはわからないが、ある程度は彼女の思考に入り込めたようだった。彼女は顎に手を当て考える姿勢になると、そのまま動かなくなってしまう。僕は床に散らばった文庫本の一部を集めた。文字が途中で切れてしまったものや、綺麗に上下に裂けているものもある。誰かが魂を削って書いたものを、売ってしまうのもどうかと思うけれど、こうやって紙くず同然にしてしまうなんて。多分、彼女が文字を書く人間ではないからできることとなんだろうな。ただの商品としてしか扱っていないからこんなことができるんだ。僕は内心悲しくなりながらも、彼女の思考が終わるのをただじっと待つ。
 時計の音がうるさく聞こえた。そうか、彼女は秒針に合わせて本をちぎっていたのだな。いまさらになって気づくが、だからと言ってなにかが変わるわけでもない。自分の頭の中に、くだらない発見が一つだけ増えただけだ。
 彼女が動いた。僕が拾い集めたページのうちの一つを、つまみあげる。
「思った通りだったわ。あなた、本当につまらないわね。なんていうか、空想と現実をはっきりとした境界で仕切ってしまっている。確かにいいことかもしれないけれど、それはいろいろと矛盾しているわ。頭というものは、現実に存在するものよ。けれど、思考というものは実在しているわけではないわ。そうすると、完全な線を引っ張ってしまうと、この二つが相容れなくなってしまう。あなたは何も、みんながびっくりする様なことは考えられないわ。
 いい、私たちはね、境界線をある程度ぼやかさなくちゃいけないの。特にその両方が存在するところにはね。だからこそ私たちは人間として大きく発達してきたんだもの。でも、そうやって線をごまかしている人間のことを、多くの人は狂人というでしょうね。けれど、私から見たらそういう人たちのほうが狂っていると思うのよ! だって、変化することを怖がって何もしないんだもの。馬鹿げていると思わない?」
 そう言って彼女は、手に持った紙切れを口に入れる。
「お腹がすいたらね、とにかく口に入れるのよ。頭を使って、ね」
 彼女は辛そうに舌を突き出した。

【情報】
お題:辛そうで辛くない少し辛い小説(制限時間:1時間)

2012.11.07 08:16 作成
2023.12.17 08:34 修正

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