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小説|鏡の中

 鏡の向こうに広がる世界というのは、とても儚げだった。触れてしまえば、すぐに散ってしまいそうなほどに朧げで、とても美しかった。高尚な芸術のように輝き、私のような人間が手を触れることは許されない。圧倒的な存在感を提示しておきながら、私には一切の干渉を許していない。一度触れれば、私にそれ以上の自由は許されていなかった。
 とても近くに、私がいる。ほかの誰よりも近いところにいるのに、私たちは触れ合うことを許されていなかった。
「おはよう」
「おはよう」
 私が声をかければ、彼女も同じように返してくれた。私が洋服のチェックを頼めば、快く付き合ってくれる。嫌なことがあった時も、優しい言葉を掛けてくれた。家族や友達には言えないことも、彼女になら言えた。誰よりも深いところでつながっていると思っていたし、誰よりも彼女のことを知っていると思っていた。けれど、どこまで彼女に近づいても、彼女に触れることはできなかった。自分と同じ形をしたもののはずなのに、そっくりの双子の様なのに、私たちは果てしなく遠い境界線によって区切られていた。
 我慢の限界だった。
 彼女を鏡の前に呼び出して、そこにいるように命じた。何が起こるかわからないといったように彼女は眉を顰めたが、私は構わず手を伸ばした。
 ひやりとした感覚が手の平に伝わってくる。棘の生えた服を着ているような、くすぐったいような痛みが指先にまとわりつく。まるで猫に舐められているかのようだった。彼女に会えるという興奮と緊張が、この奇妙な感覚に包まれてよくわからなくなる。自分がどんな感情を持っているのか、まったくわからなかった。
 それは彼女も同じようで、私と同じように突き出した手が震えていた。今にも泣きそうなくらいに目に涙をためている。私は一言大丈夫と声をかけたが、その言葉がどれほど彼女の胸に響いたかはわからなかった。
 彼女の手と自分の手が重なる。
 まったく温かくなかった。それどころか、この境界線のように冷たい。彼女はまるで死んでいるかのように冷ややかだった。私は今にも泣きそうだった。これまで私を受け入れてくれたと思っていた最後の人間が、この私を拒否しようとしているだなんて。私は、これから何を支えに生きていけばいいのだろう。わからなくなった。
「あなたはこっちに来ちゃだめよ」
 彼女が囁く。
「なんで……」
 私はその場に崩れ落ちた。彼女もしゃがみ、私の頭に手を乗せようと腕を上げる。しかし、境界線に邪魔されてそれ以上のことはできなかった。
「何故って、こっちに来たらあなたは死んでしまうわ」
「今ここにいるだけでも死んでしまいそうなのに! 今ここで喉を裂くのとそっちに行って死ぬのと、何が違うっていうの!」
 思わず荒げてしまった声に、彼女は驚いたように身を縮めた。そのまま涙を流してしまう。
「確かに、死ぬということには変わりはないわよ。でも、その理由が大きく違う。それに、あなたは何か勘違いしているわ。私はあなたを拒絶しているんじゃない。でも、わたしも死にたくはないのよ」
 彼女はぼろぼろと大粒の涙を流す。私はそんな彼女の涙を止めたくて手を伸ばすが、爪が境界面に当たってはじかれる。彼女に触れることは、できなかった。
「私だって、あなたに死んでほしくはない。けど、私はあなたに触れたいの……」
 鏡に寄りかかって、少しでも彼女に近づこうとする。けれど、冷たい感覚が身体中に染みこんでくるだけで、何も起こりはしなかった。彼女も、床に座り込んで泣いている。私もつらいが、彼女もつらいのだろう。私にわからないことをその小さな胸に抱え込んでいる。力になりたくても、この壁のせいで私たちは永久に隔たれたままだった。
「……本当にいいの?」
 唐突に彼女がつぶやく。
「え?」
「あなたは、後悔しない? わたしが死ぬことになっても、あなたが死ぬことになっても。どんな結果になったとしても、あなたは何も言わない?」
 彼女は何かを確かめるようにそう唱えた。その瞳の奥には、ぶれることのない光が灯っている。
 拒否する理由など、どこにもなかった。
「もちろんよ」
 私の言葉に、彼女は安堵したように顔を綻ばせた。そんな彼女の表情に、私の頬も緩む。
「わかった。少し離れてて」
 彼女の指示通りに、私は立ち上がって数歩下がった。すると、彼女は鏡から消えてしまう。何をしているのかと覗き込むと、彼女も小さく顔を出した。
「もうちょっと待ってて」
 そういうと、彼女はまた戻ってしまう。何をやっているのかはわからなかったが、今は待つしかないだろう。ゆっくりと、彼女の準備が終わるのを待っていた。
 時計の針の音が、私の鼓膜を刻んでいく。埃っぽい匂いが私の鼻先をかすめた。長い長い時間が、目の前をゆったりと通り過ぎていく。やがて、眠くなってきてしまった。寝不足ではないはずだったが、日向に投げ出された猫のように、ふと意識が落ちかけてしまったのだった。ふらふらと覚束ない足をどうにか動かして椅子に座る。同時に、私の意識はなくなってしまった。

     □

 目に映ったのは、どこまでも続く白だった。見渡す限りすべて白。上も下も右も左も、どこもかしこも白だった。でもそれはどこか冷たくて、寄せ付けないような空気があった。私がここに来たことを歓迎していないようで、私を追い返そうと必死になっているようだった。
「やっと来たか」
 ふと、どこからともなく声が聞こえた。
 部屋の中央、何もないところに、一人の人間が立っている。少年だろうか。少し長い髪が彼の片目を覆い隠している。服装は上下ジャージと、とてもラフだった。
「あなたは誰?」
「あんたが求めているものはここにはないよ」
 彼は私の問いに答える気がないようで、聞きたかったこととまるで違うことを口にした。もう一度同じことを聞くが、まったく相手にしてくれない。
「どうして他人のあなたが私の欲しいものを知っているというの? あなたは超能力者か何かなの?」
 私は何か変なことを言っただろうか。彼は大きく口を開けて笑った。眼尻に涙を浮かべている。彼の笑い声はとても不愉快なものだった。ガラスをする合わせたような、胸の奥が引っ掻き回されるような音。
「超能力者ときたか! やっぱり面白いな。僕が選んだことだけはある」
 彼は訳の分からないことを言っている。
「あんたはさっき言ったね。どうして別人の僕があんたの欲しいものを知っているか、って。答えは簡単だよ。僕はきみだからさ。勘違いしてほしくないのは、僕がきみであるからと言って、きみが僕であるとは限らないということさ。僕はきみの考えていることはすべて知っている。そもそもの順序が逆だからね。
 さて、本題に入ろうか。ここにきみの求めているものはないよ。きみを全面的に肯定してくれる唯一無二の親友は、きみが作り出した幻想でしかないんだから。きみは自らの手で彼女を殺したんだよ。境界線があるからこそ彼女は生きることができた。でも今、きみは鏡のこちら側にいる。それはすなわち境界の破壊だ。そんなことをしてしまえば、今まで安定して存在していたものはすべていなくなってしまう。そういう意味で、きみの求めているものはここにないんだ。きみが必要としている、すべてを受け入れてくれる彼女は、もういない」
 そう吐き捨てた彼は、白い床に座り込んだ。だらしなく胡坐をかく。
「あなたに彼女の何が分かるの?」
「わかるさ。わかるとも。だってきみは自分に語りかけていたんだ。それなら、等号で結ばれる僕が知らない訳がないだろう?」
 彼の話し方は私の神経を逆なでするようなものだった。少しくらいなら我慢できただろうが、もうこれ以上彼の言葉を聞くことはできない。
 私は彼に背を向け歩き出した。
「どこへ行くんだい?」
 私は答えず進み続ける。
「彼女も言っていただろう。きみはここに来た時点で死ぬしかないんだ」
 どこかに出口はあるはずだ。
「鏡の中というのはとても狭い。すぐに壁にぶつかるが、その向こうは逆側の壁だ。いつまでも歩くことになるぞ」
 彼女がどこかにいるはずだ。
「……わからないやつだな」
 彼はそういって立ち上がると、ふわりと浮きあがった。そして、私の目の前へと急速に移動する。私は逃げようと身体の向きを変えたが、彼の呟いた言葉により私の身体は拘束されてしまった。
「いいか、もう一度言うぞ。鏡というのはとても狭い空間だ。そこに写るのは限られた範囲でしかない。それは、鏡の向こう側の景色がそのままそっくりこの世界に投影されるからだ。そして、それを逆側から見るのだから、反転する。この場所が今白いのは、外側に何もないからだ。鏡で映すことのできるものがないから、こうやって白くなる。もうわかっただろう? この世界から出ることはもう不可能なんだ。離脱するためには、死ぬしかない」
 もっとも、解放はされないだろうがな。彼はそう付け加える。
 私の身体は動かなかった。どう念じてもまるで私ではないみたいに停止している。そして、彼の言っていることも、分かっていた。認めたくはないしすべてを把握しているわけではないけれど、ここで嘘を吐いたとして、何の意味があるのだろうか。
 あぁ、こんなところに来るんじゃなかった。
 彼女との約束を、守ることはできなかった。
 どうせ、彼女なんていなかったのだろうけど。
 私が作り出した、都合のいい偶像なのだろうけど。
「私を殺して」
 彼に呟いた。
「そうかい」
 彼は大きく口を開ける。それはまるで蛙のようで、耳のところまで裂けた口が大きな歯をむき出しにして迫ってくる。私の頭をすべて覆ったところで、勢いよくしまった。
 ぷちり、と可愛らしい音が鳴る。
 首が切れ、私の意識も途切れてしまった。
 そこにあるのは、すべてを呑み込む白だけ。

【情報】
2012.10.12 22:23 作成
2023.12.07 09:35 修正

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