小説|秘密のお祭り
どん、と空気が震えた。
大きな音の所為ではない。確かに、向こうのほうからは花火も打ち上げられ賑わっていることは確かだが、それとは別の振動が僕の心臓を一瞬止めた。決して音量が大きいとは言えない、けれど腹の奥に響いてくる音。祭りといえば囃子である。その中でも目立つ、大太鼓。山車の右端に括り付けられた大きな太鼓は、深く渋い音を空気に浸透させながら祭囃子を際立たせていた。もちろん小太鼓や鉦、篠笛というそれこそ祭りの象徴ともいえる楽器がある中、僕の耳には大太鼓の音が飛び込んできた。実際に近くで叩かれる太鼓の音というのは全く違う。いつかにテレビで和太鼓の特集があり叩かれているのを聞いたが、そこではあまり興奮しなかった。ただ楽器が鳴っている、というくらいの認識でしかなかった。録音されたものでは味わえない、空気の振動。これが太鼓の音。こんなにすごい音を聞いてしまっては、今晩眠れるかどうかもわからない。
年に一度の秋祭りは、多くの人でにぎわっていた。都会のほうに出ていた人たちもほとんど帰ってくる。山の奥だからこそできる、それでいてそこらの祭りには劣らない豪華さがあった。電車も新しくなったおかげで、観光客も増えたようだった。そのお蔭で、店の両脇には数えきれないほどの露店が並んでいる。去年は二三個だけだったというのに。
浴衣を着たカップルや制服の高校生たちが歩いていく。ゲーム機を持った子供たちが脇を走り抜け、お祭りの格好をした大人たちが缶ビール片手に笛を吹く。見た目もやっていることもバラバラなのに、どこか奥の方にある一体感というのが心地よかった。
「あ、いた」
後ろの方から声が聞こえ、それとなく振り返ってみると顔に手が覆いかぶさった。小さくて冷たい掌が僕の鼻を押す。
「あ、ごめん」
彼女は急いで手をどかすと、様子を窺うように覗き込んできた。僕は何ともなかったということを主張するべく、すぐに体勢を立て直して笑う。
「いやいや、だいじょうぶ。それより、こっちに帰ってきてたんだ」
「そうそう。お母さんに無理言ってきちゃった。向こうにはこんなお祭りはないからねー」
「そっか。そっちでの暮らしはどう?」
「うん、まぁ、ぼちぼちかな。ただ、お母さんが最近忙しいみたい。私が家に帰ってもまだ仕事中だったりするし」
「そっか……。まぁ、元気そうで何より」
「それはこっちの台詞だよ」
彼女は僕の右側に回り込み、隣同士に並んだ。そして露店の間をすり抜けていく。法被を着ているから、今年は祭り自体にも参加しているのだろう。彼女がやるのは多分踊り子だ。山車のてっぺんに上って、提灯をもって踊る。音だけの祭りが、とても華やかになる。見ている方としては落ちないか気が気でないのだが。
彼女が落書きせんべいを食べたいというので、一番安そうなところに行った。彼女が腹掛けから小銭入れを取り出すよりも先に、二枚注文する。おじさんはサービスでもう一枚くれた。彼女に一枚渡し、描いてもらう。二百円を持ったまましばらく硬直していた彼女だったが、諦めたのかまた腹掛けに仕舞い、筆をはしらせた。女の子らしく、ハートを描いている。僕も何か書かなくちゃいけないと思ったが思いつかず、かといって何か細かい絵を描いてもすぐに食べてしまうものなので適当に線を引いた。色のついたチョコレートみたいなものを振りかけてもらい、完成する。サービスの一枚は二つに割ってそのまま食べた。
作ったせんべいを食べながら、僕たちは自分たちの地区の山車のところまで歩いていった。近づくにつれ大きくなる太鼓の音に、思わず身震いする。
「私思ったんだけどさ」
半分くらい齧られたところで彼女はつぶやいた。
「日本人ってさ、何百年たっても祭りの音聞くと楽しくなっちゃうよね。特にこれにいやーな思い出がない限り。もう太鼓の響きがお腹に響くだけでわくわくしちゃうもん。笛が鳴るときの微妙な息の漏れる音とか、鉦のうるさい音とか。このざわざわした感じだけでも、十分楽しめちゃう。
こういうのって祭りだけじゃないと思わない? 深ーい森の中に入って耳を澄ませて、葉っぱが擦れる音とか生き物の鳴き声を聞くととても落ち着く。土を触ったり、お母さんに抱き着いたりすると、何とも言えない暖かい安心感があるよね。なんでだろう」
ぱりぱりと軽快におせんべいを削っていきながら彼女は言葉を放つ。それは問いのようだったが、僕に宛てたものなのか自分自身に向けたものなのか、いまいちわからなかった。でもその言葉を無視することはできずに、彼女の求めている理由を自分の中から探し出す。何度か言葉を確認した後、彼女に向かって答えた。
「それは、やっぱり過去から連続して人間ってものが続いてるからなんじゃないかな。遺伝的なものかどうかはわからないけど、少なくとも環境要因はあるだろうね。もしかしたら民族性のものなのかも。でも、誰に言われたわけでもないのに、初めて聞く音だとしてもそう感じてしまうのは不思議だね。僕自身わかってないけど、ちょっと考えてみたんだ。
昔から受け継がれてるものってなんだろう。自分の身体はもちろん引き継がれないし、記憶なんて言うまでもないよね。言葉とか絵とかだって、それは誰かの記録であって自分のものではない。それを見ても何も感じないことのほうが多いかも。祭りに参加したことのある人なら、高揚するかもしれないけど普通の人はただの絵としてしか見ないだろうね。そうすると何が昔からずっと続いてるんだろう。
僕が思うに、それは魂だと思うんだ。こころ、ともいえるかもしれない。魂は身体が変わってもずっと不変で、そこにはいろんな記憶が刻み込まれてる。もし一個前の前世が人間じゃなかったり日本人じゃなかったりしても、ずっとずっとさかのぼっていけば必ず日本人として生きていたことがあるんじゃないかな。それと、日本人として生まれたことにも意味があるかもしれないよね。魂と身体、環境、遺伝……。いろんな要素が複雑に絡まって、それが複合的に自分を刺激してるんじゃないかな。スイッチが入るみたいに」
自分が何を言っているのか少しわからなくなってきたところで、言葉を切った。残ったせんべいの欠片を口に放り込む。思ったよりもほんの少しだけ大きくて、口の中に刺さってしまった。ふと気になって隣の彼女を見てみると、案の定眉を顰めて考えているようだった。
「うーん、ごめん。わかんないや」
彼女はそれだけ呟くと、腰に差していた篠笛を抜きとった。
「ごめんね、変なこと言って」
「ううん、考えてくれてありがとうね。こういうのって、分かっちゃいけないのかもしれないね」
「……?」
「あぁ、ごめん。考えてもみえないことは、秘密としてそっとしておくのがいいかもしれない、ってこと」
私は行くね、と彼女は言って山車のほうへ行ってしまった。
「…………」
わからないほうがいいこともある。秘密にしておいたほうがいいこともある。
確かにそうかもしれなかった。あまり深く考えても、分からないことは多くあるし、それは本来わかることでも自分自身が規制しているのかもしれないし。
僕は携帯を取り出した。
「……もしもし、母さん? 僕の祭りの衣装ってまだあったっけ——?」
ならばせめて、その秘密を共有しよう。