見出し画像

小説|環状洪水

 ふわりと舞う風の中に、懐かしいものを感じた。思い出を探ってみれば、向日葵のように絶えず笑顔を振りまいていた幼少のころが視界に映る。仲が良かった女の子と、公園の砂場で遊んでいるところだ。泥まみれになりながら、噴水と砂場を行き来して自慢の泥団子を作り上げる。この時、僕は何も考えていなかったのだろう。感じていたのだ、楽しいということを。好きと嫌いがはっきりしていた、感情に従う小さな男の子だった。その点彼女は、砂場にいながらもどこか遠くを見つめていて、なんだか子供じゃないようではあった。しかし僕との会話はとても幼稚なもので、その判断基準は好みであったに違いいない。少なくとも、その時を振り返って僕はそう思っている。
 そういえば彼女とはしばらく会っていない。携帯電話を取り出して、SNSの彼女のページを確認する。どうやら、大学生活を満喫しているようだった。彼氏もいるらしい。彼女のプラスの感情に満ち溢れた発言を眺めていると、胸の奥のほうで嫌な音がした。とても不快で、まとわりつくような、粘性のある音。聞かなかったことにして、僕は彼女宛にメールを打った。久しぶりに会わないか、という短文ではあるが、これが僕の精一杯の反抗なのだろう。身体ばかりが大きくなって心が成長していないことをまたもや思い知らされた日ではあるが、それよりもふと記憶によみがえった彼女と会話をしてみたいと思ったのだった。程なくして、返信が来る。了解、の二文字で返事は片付けられていた。
 場所も何も考えていなかった。とっさに駅前の喫茶店の名前を打ち込み、時計を確認する。三十分後に集合することにした。その旨を打ち込み、送信する。今日は奢ろう。彼女の中の僕というものを、少しでもいいものにしておかなければ。

     □

「でもなんでそんなこと思い出したのさ」
 彼女はアイスコーヒーを啜り、苦さを吐き出すように顔をしかめた。彼女のカップのそばに砂糖を一つ置いたが、一向にそれを使おうとしない。意地を張っているようだった。
「それは僕にもわからないんだけど、なんかね」
「でもあの時は楽しかったねー」
「覚えてるん?」
「まぁ、ほんのちょっとだけど。かれこれ十二、三年前のことだからねぇ。でも楽しかったことは覚えてる。きみが作った泥団子でボーリングしたり、砂のお城にトンネル開通させたり。あとは、ナスカの地上絵ごっこやったり」
「なんだか僕の楽しみを潰されているところしか思い浮かんでいないようだけど、でもナスカの地上絵ごっこか。確かにそんなこともやったね」
 ほっそりとした指をカップの取っ手に滑り込ませる。
「まだほかにもいろいろ覚えてるけどね。変な絵描いてたよねぇ。昔にいた星座を書いてた人たちみたいに、ありえないけどそうだって言い張ったり。これは卵かけごはんなんだ! ってね。なんでそのチョイスにしたのかは定かじゃないけど」
「なんだか僕の中では昔のことが美化されて蓄積されてるみたいだ。まったく楽しそうじゃない」
 半分になったコーヒーを彼女は少しずつ飲んでいく。
「でもその時は楽しいと思ってたんじゃないの? 小さな頃って、結構何も考えてないじゃない。たまに大人もびっくりするくらい冷静に物事を観察することもあるけど、それもごく一部だしね。頭でどうこう考えるよりも、とにかく自分がやりたいようにやってたじゃない? だから楽しかったし、小さな時のことはよく覚えてる。でもだんだん大きくなって大人数のコミュニティの中に入っていって、だんだんと周りと同じようになるように刷り込まれる。自分の頭で考えていかに相手に迷惑をかけないかを考え始める。そうすると自分の中の楽しい部分が抑圧されていって、つまらないって感じるようになるんじゃないかな?」
 彼女は通りかかった店員に、ショートケーキを注文した。
「でもさ、それじゃあ昔のほうがよかったんじゃないか? もちろん今の僕たちの年齢でそんな感情的に動いていたら周りから冷たい目で見られるだろうけど」
「そこなんだよ」
 眉を顰めたおかげで、彼女の顔が暗くなる。とても厳しい表情だった。
「周りからの評価を気にしすぎているから、そういう考えに至るんだよ。もちろん私たちは大学生だしもうすぐ社会人になる。そうすればより一層他者と同じになっていかなくちゃいけないだろうね。自分を自分のままでいられる場所なんてとても限られているし、そんなことをできる立場にもない。でもだからと言って、周りからの評価を恐れちゃだめだと思うんだ。というか、他者からの評価を気にしている時点で君はもう手遅れなのかもしれない。ただ機械的に時間を消費していく生き物なのかもしれないね」
 運ばれてきたケーキに目を輝かせる彼女。
「でもキミの言う評価を気にしない生き方っていうのは、とても自己中心的なんじゃないかな。自分の好きなことを好きなようにやる、ほかの人が言ったことをまるで聞かない。自分がやりたいことなんだと無理やり相手に押し付けて傲慢に物事を進めていく。それはなんだか、悪いようなことのようにも思えるんだけど」
 フォークでケーキを細かくしていきながら、彼女は考える。ホイップクリームをまとめて掬い上げ口に含んだ。すぐさまコーヒーを流し込んでいる。なるほど、甘さで苦味を回避しようとしているのか。
「うーん、でも確かにそうだなぁ……。でもあたしが言いたいこととも違うんだよなぁ。なんかこう、違いがあるってわかるのに、その違いが分からない感じ。わかる?」
「何となくは……わかる。けど、キミが本当に言いたかったことがなんなのかはわからない。結局それは、今自分が得られないことをどうにか肯定してもらうための言い訳にしたいんじゃないかな、って思った。自分でも何を言っているかわからないしこれから先この言葉の答えが見つかるんだと思うけど、結局昔のいいところだけを抽出してそれを今に適応させようとしているだけなんじゃないかな」
「うーん、昔ねぇ……」
 彼女はそれきり喋らなくなってしまった。一人黙々とケーキを頬張っている。イチゴだけは皿に下ろされてケーキの行く末をただ見ていた。僕も少しだけ残っていた紅茶を啜る。なんだかとっても苦くて、あまりおいしくなかった。彼女は砂糖を使わなかった。

     □

「ねぇ、どれだけ昔がよかったか気にならない?」
 唐突に喫茶店へと呼び出してから一ヶ月が過ぎたころ、彼女は僕にメールをしてきた。話したいことがあるらしい。僕は異性からの突然のメールに内心どぎまぎしながら、震える指を押さえつけてどうにか返信をする。するとまたあの喫茶店の名前が挙がった。どうやらケーキがおいしかったらしい。とりあえず僕は約束の時間の三十分前から店の中で待機していた。少しだけ服装にも気を使っている。少しだけお洒落で、それでいて普通なものを重ねて着る。
 彼女が提示した時間の五分前になって、ようやく本人がやってきた。扉をくぐってきょろきょろとあたりを見渡す。僕は小さく手をあげて彼女の注意を引いた。
「ありがと」
 小さくつぶやいて、店員にコーヒーとショートケーキを頼む。それらが運ばれて来るのを待つ間、僕たちは時間というものについて話していた。
「時間って言うのはね、不可逆的なものなんだよ。だから過去に戻ったりはできない。タイムマシンができても、無理やりルールを捻じ曲げて過去に戻ろうとするから時間もかかるしお金もかかる。負担も大きい。もちろんフィクションの世界では時間なんて些細なものでしかないからどう扱おうといいんだけど、現実世界においては時間が命だからね。一瞬一瞬が一度しか訪れなくて、それでいてただ前に進み続けるもの。そう考えると、時間ってやなやつだよね」
 くすり、と彼女は笑う。
「でもそれなのに、あたしたち人間は過去に戻りたがる。昔はよかったと考えてしまう。そんなことが無意味だとしても、叶わないとしても、思わずにはいられないんだろうね。あたしだってそうだもん。でも時間の波に逆らわないタイムトラベルの方法を思いついたんだ。
 時間はね、線みたいなものなんだよ。一瞬一瞬のという点が連続しているから線のように見える。それは直線かもしれないし曲線かもしれない。でも何かしらの関数ではあり、どこかで途切れたりはほとんどしない、連続なの。時間は物質的に存在することもなければ精神的に認識できるものでもない。見えない物ではないけれど、ここにはないもの」
 コーヒーとケーキが同時に運ばれてくる。
「未来の瞬間を切り取って過去の瞬間に張り付けたら、逆流はしてないでしょ?」

【情報】
2012.08.27 22:14 作成
2023.11.21 21:35 修正

いいなと思ったら応援しよう!