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小説|沈む部屋

「秘密は自分にしか言わないよ」
 彼女はそれだけ言うと、僕の世界から消え去った。
 あまりに唐突な出来事に、対応することも出来ずに立ち尽くす。はるか彼方へと落ちていく彼女は花びらのように儚く、美しかった。

     □

「わたしたちは一人ではないわ。だって、単純ではないもの」
 彼女は部屋の鏡に向かってそう呟いた。僕には背を向け、丁寧に手入れされた鏡面に自分の無表情な顔を写し、考え事をしている。
「それは、同じ顔をしている人間はいないのに、人類という大きな括りに収めることができるということ?」
「当たっているような気もするけれど、わたしの言いたいことはそうではないわ」
 口から漏れ出たため息が透明な鏡を曇らせていく。そばに置いてあった上質な布で表面を拭きあげると、先ほど以上に綺麗に輝いた。彼女の言う複雑さとはなんなのだろう。僕たちが1人ではないということに直結するようなものは、見当たらなかった。
 彼女は僕の前に座り、机の上にあるみかんを剥きはじめる。ぷつり、と小さな親指が底を突き抜けた。
「わたしが言いたかったのはね、自分というものの中には別の物も含まれている、ということよ。見る自分と感じる自分、言ってしまえば、考える自分も含まれるかもしれないわね。本来これらはぴったりとくっついてスムーズに情報の受け渡しがあるのだけれど、たまに、これらが離れてしまうことがあるの。そうすると、どうなるのかしらね」
「あれ、答えは知らないのかい?」
 彼女は半分ほど剥いだみかんを置き、肩を落とす。
「ある程度絞ってはいるけれど、どれも気に入らないのよ。自分自身の考えでしかなくて、すべての人に共通するものではないような気がして」
 そんなことをいったら、僕は何も言えないではないか。自分の中で考えていることを、ほかの人間が共通して持っているとは限らない。彼女は自分自身を神様か何かとでも思っているのだろうか。普通という言葉がある以上、傾向はあるのかもしれないけれど、一致するような形というものはないのではないだろうか。
 でもそれは、彼女が鏡の前で言った言葉には結びつかない。
 最後まで剥き終わった彼女は、白い部分を丁寧にはがしているようだった。
「わたしたちは、ただ時間を過ごしているだけではないのだと思うわ。それはつまり、何かしらの目的がどこかに存在しているということなの。わたしたちが生きるということには、必ず理由がある。それがなにによって決められるのかが、今回のポイント」
 これはあくまでわたしの考えだけどね、と彼女は続ける。
「わたしたち人間は何かしらの理由を、とてつもなく大きなものから与えられたのだと思うの。そしてそれらは形をもって、わたしたちになったんだわ。その過程にはいろいろな痛みがあったと思うの。変化することと捨てなくてはいけないこと、どれも苦しいことだわ。けれど、それらが終わった後、わたしたちは新しいものへとなることができるの。これはね、自分の内側と外側、どちらにでもいえることだわ。段階を踏んで、わたしたちは形を整えていく。
 だけれど、その途中で痛みから逃げてしまった時、わたしたちの内にある自分というものが揺らいでしまうわ。見ている自分と感じている自分が分離してしまった時、深すぎる溝にめまいがしてしまいそうになる。自分は見ているだけで、何も感じることはできない。自分は景色を取り込んでいるけれど、面白いことなんて何もない。そういう心理になってしまった時にね、わたしたちはとても不安定になる。痛みを避けて通りぬけようとしてしまっては、軸のないいびつなものになってしまうんだわ」
 みかんを一房口に入れ、時間をかけて嚥下する彼女。けれどそれは、強いものにしか適応されないのではないか。
「痛みに耐えられなかった弱者には、成長する資格はないということ?」
 僕も新しいみかんを剥いて、乱暴に一つを口に放り込む。彼女は驚いたように眉を持ち上げ、目を伏せた。
 ふたりで黙々とみかんを食べ続ける。キッチンの換気扇が回る音が、ごうごうと扉の下から響いてきた。吹き付ける風が家を揺らしてく。僕たちは思いと言葉をみかんに染み込ませて、自分の内側へとかえしてゆく。その度胸のあたりが痛くなるけれど、どうしてそうなるのかはわからなかった。
 とにかく、と彼女は沈黙を断ち切った。
「強い弱いはこの際関係ないのよ。ただそういうシステムがあるということを、あなたに知っておいて欲しかっただけ。言ったでしょう? わたしの考えだ、って」
 最後の一房を食べ終えると、彼女は立ち上がりごみ箱に皮を捨てた。そのままキッチンで手を洗い、荷物を取ると何も言わずに玄関へと向かってしまう。
「もう帰るのかい?」
 僕の問いに、彼女は足を止めた。
「えぇ、帰るわ。これ以上ここに居たって、苦しいだけだもの」
「もしよかったら相談に乗るけれど、なにか僕に言えない事でもあるのかい?」
 彼女は向き直り、僕の目を見据えた。すっ、と血が抜け落ちたかのように温度が遠ざかった。冬のせいではない。悲しい寒さだった。
「えぇ、そうね。恋人にも親友にも尊敬する先輩にも、家族にでさえ、この感情の原因を言うことはできないわね。だって、わたし自身が言葉にする方法を知らないんだもの。この気持ちを抱えたままあなたと当てもない言葉探しの旅に出たとしても、ただ苦しいだけだわ。だから、いいの。今日は帰って、また明日来るわ」
 彼女は靴を履き、つま先を床で鳴らして整える。扉に手をかけ、微かに首を傾けて一言呟いた。
「秘密は自分自身にしか言わないわよ」
 自分の中にいる、得体の知らないお利口さんにね。
 それだけ言うと、彼女は扉を開けて出ていった。
 外は月にのみこまれた真っ暗闇で、どこにもつながってない静かな場所だ。
 閉じ込められてしまったのかもしれない。そう、ぼんやりと考えることしかできなかった。

【情報】
2013.02.28 20:32 作成
2024.10.24 16:11 誤字・脱字修正

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